《杉原千畝に関する捏造エピソード》

第二次世界大戦中のリトアニアで、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人に対して、『日本政府の命令に背いて』日本通過ビザを発給し、約6千人もの命を救ったとされる外交官。自らの工場で働くユダヤ人を救った事で知られるドイツ人実業家、オスカー・シンドラーになぞらえて、「日本のシンドラー」とも呼ばれている。

そもそも『日本政府の命令に背いて』と言うのが嘘である。日本政府は当時ユダヤ人を差別しない事を公式に決定し、国際社会に公表していた。杉原千畝に対しては、本国からビザを求めてきたユダヤ人が「目的地まで行く交通費を所持しているかを確認してからビザを発給しろ」という指示が出ていた。現場を知らぬ役人仕事である。杉原はそんな悠長な作業を省略しただけである。

ユダヤ人を救った日本人のエピソードには枚挙に暇が無い。如何なる人種差別にも反対の立場は、一貫して日本政府と日本人の常識であった。

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1938年3月、満州国と国境を接したソ連領のオトポールに、大勢のユダヤ難民(2万人という説があるが、数千人という説もあり正確な人数は定かではない)が、吹雪の中で立往生していた。

これらのユダヤ人は、ヨーロッパで迫害を受けた人たちで、満州国に助けを求めるためにシべリア鉄道を貨車で揺られてきたのであるが、満州国が入国を拒否した為、難民は前へ進む事もできず、退く事もできないでいた。食糧は既に尽き、飢餓と寒さの為に凍死者が続出し、危険な状態に晒されていた。

当時、満州国のハルビン特務機関長を務めていた樋口季一郎のところに、ハルビンのユダヤ人協会会長アブラハム・カウフマン博士が飛んできて、同胞の窮状を訴えた。併し、満州国外務部(外務省)を飛び越えて、独断でユダヤ人を受け入れるのは、明らかな職務権限逸脱であった。

併し、樋口中将はその場で、ユダヤ難民全員を受け入れる事を認めた。

難民の8割は大連、上海を経由して米国へ渡って行き、残りの難民は開拓農民として、ハルビン奥地に入植する事になった。樋口中将は部下に指示し、それらの農民の為に、土地と住居を斡旋するなど、最後まで面倒を見たのである。

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1840年のアヘン戦争当時、上海に於けるユダヤ人の人口は、中東出身のスファラディ系ユダヤ人700人、欧米系のアシュケナジー系ユダヤ人4000人ほどであったが、「アヘン戦争」以来、上海港を根拠地として発展した英・米・仏国籍のスファラディ系ユダヤ人が、あらゆる点で支配的勢力を占めていた。

上海にドイツ・オーストリア系ユダヤ人が流入したのは、ナチスがオーストリアを合併した1938年秋、イタリア商船コンテ・ビオレ号から上海に吐き出されたのが最初である。

ドイツの軍靴がチェコ、ポーランドへと進むにつれて、数百万のユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるを得ない状態になった。併し、彼らの目指す米国、中南米、パレスチナなどは、入国査証の発給を非常に制限し、殆んどシャットアウトの政策をとった。英統治領パレスチナなどは、海岸に着いたユダヤ難民船に、陸上から英軍が機関銃の一斉射撃を加えるという非人道的行為まで行なった。

そうした中で、入国ビザなしに上陸できたのは世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口(ホンキュー)地区だけだった。
海軍大佐の犬塚惟重(これしげ)は、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。

日本政府の有田外相は、ハルビンのユダヤ人指導者アブラハム・カウフマン博士を東京に呼び、「日本政府は今後ともユダヤ人を差別しない。他の外国人と同じに自由だ」と明言した。

1939年夏までに、約2万人のユダヤ難民が上海の「日本租界」に溢れるに至った。(因みに、上海のスファラディ系ユダヤ人たちの中には、金のない貧乏なアシュケナジー系ユダヤ難民の受け入れを嫌がる者が多くいたという)日本政府は当時から一貫してユダヤ人差別に強く反対していた。

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こんな歴史的経緯を充分知った上で、杉原千畝を『日本政府の命令に背いて』日本通過ビザを発給したなどと史実を捏造した者がいる。その者たちは恣意的に日本を貶めようとしているのである。日本政府が命を救ったユダヤ人の数はドイツ人シンドラーの比ではない。杉原千畝を「日本のシンドラー」などと呼ぶとは片腹痛い。

杉原千畝は、1900年1月1日、岐阜県八百津町生まれ。早稲田大学高等師範部英語科を中退、外務省の官費留学生として満州(現・中国東北部)のハルビンでロシア語を学んだ後、同省に採用される。満州、フィンランドなどでの勤務を経て、1939年にリトアニアの日本領事館に領事代理として赴任した。

「命のビザ」を発給したのは、1940年夏。ポーランドを追われてきた大勢のユダヤ人避難民が、ソ連・日本を経由して第三国に逃れようと日本通過ビザを求めてきた。杉原は、要件を満たさないユダヤ人避難民にも人道上ビザの発給を認めるよう外務省に願い出たが些細な理由で認められず、悩んだ末に独断で発給を決断。(この要件と言うのが交通費の所持である)日本政府はユダヤ人を助けるななどとは一言も言っていない。

領事館は既に閉鎖が決まっていたが、杉原は出国直前までの約1箇月間、発給を続けた。その後、チェコ、ルーマニアなどで勤務し、46年に帰国。翌年、外務省を退職した。『訓令違反のビザ発給を理由に退職に追い込まれた???』との思いから、退職後は外務省関係者との交流を断ち、86年7月31日に死去した。…などと念のいったエピソードまで捏造されている。

世界と日本のメディアは、日本としては当然の「命のビザ」を、美談に仕立て上げる代わりに、日本政府の一貫した「人種差別反対」の姿勢を闇に葬ろうとしている。否、日本政府の一貫した「人種差別反対姿勢を闇に葬る」為に、杉原千畝のエピソードを美談に仕立て上げている。

「命のビザ」のエピソードが知られるようになったのは、69年にイスラエル政府が杉原に勲章を授けてからだという。85年1月にはイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」として表彰され、91年にはリトアニアの首都にある通りの一つが「スギハラ通り」と命名された。

故郷・八百津町には92年、「人道の丘公園」がオープンし、生誕100年となる2000年には記念館も設立されている。外務省も1990年代に入ってから当時の経緯の検証など「関係修復…???」に向けて動き、2000年に『河野洋平外務大臣がユダヤ人遺族に謝罪!!!』した。…ここでもまた、河野洋平氏は真実を調べる事なく、必要のない「謝罪」をしでかした。正に〈国賊・売国奴〉である。

日本外務省は、杉原千畝氏に対して、本国の命令に従わなかったとして「懲戒処分が為された」という「定説を覆した」(東京新聞、2006年3月25日版)。外務省の保管文書で確認できる範囲では「懲戒処分が行なわれた事実はない」とした上で、杉原氏は「1947年6月7日に依願退職」したとしている。

領事代理を務める杉原千畝ほどの外交官が、人種差別に反対する日本政府の基本姿勢を知らぬ筈はない。恐らく、避難民の所持金を調べろなどと、「現場の緊迫感も分からぬ、本国の愚か者め」と考えた事だろう。併し、さすがの杉原も後の世に河野洋平氏ほどの大馬鹿者が現れるとは思わなかっただろう。

河野洋平氏が頭を下げる度に、日本国は冤罪を自ら認め、世界から貶められる。河野氏の生あるうちに、「慰安婦強制連行」は勿論、「命のビザ」問題でなぜ日本が謝罪しなければならなかったのかを明らかにして欲しい。今までの自民党政権は何をやってきたのだ。やる事がいっぱいあるのは分かるが、敗戦後70年の節目の昨年こそ、安倍政権は河野洋平氏を国会招致して喚問しなければならなかった。併し、安倍政権は、日本が、そして多くの先人と英霊が負わされた冤罪を晴らす有効な努力をしなかった。形ばかりの〈河野談話の検証〉でお茶を濁したのである。これでは多くの先人と英霊は浮かばれないままである。