以下の文章は最近二度に亘って Facebook に削除・凍結処分を受けた投稿です。言論の自由が守られるべき SNS の中でも利用者が多い Facebook ですが、今や〈朝鮮人擁護の為の監視・検閲〉などが明らさまに行なわれています。この日本で朝鮮人による言論弾圧を許してはなりません。
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《 史実を識っている日本人が語り継いでいかなければならない『朝鮮進駐軍』による蛮行。現在、在日韓国朝鮮人が言い募る「強制連行」や「不当な差別」などはなく、朝鮮人は常に一方的加害者であった。》

在日大韓民国民団(民団)、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)。この二つの組織はその前身が「日本朝鮮人連盟」といい、その前は「在日朝鮮人連盟中央総本部」、そして別名として何と「朝鮮進駐軍」を僭称していた。現代はネットで何でも調べられる便利な時代だが、「朝鮮進駐軍」に関しては、中々核心を突く説明に出会えない。恐らく在日韓国朝鮮人・韓国朝鮮系帰化人・背乗り朝鮮人らの史実歪曲工作の所為であろう。彼等は必死で自分達の所業を隠そうと日夜画策している。反日劣化日本人や在日が教育行政に携わっている現実では、教育現場では真実を伝え切れないもどかしさがある。それどころか〈反日教育〉まで公然と行なわれている。すっかり平和呆けしてしてしまった日本人に、一人でも多く、子々孫々に亘り、朝鮮人の真実の姿を語り継いでいかなければならない。

「敗戦後のどさくさ紛れに駅前一等地を朝鮮人が不法に奪った」という説は既に言い尽くされている。そしてそれらを正統な日本人所有者に奪い返す国策は未だに一切とられていない。朝鮮人の一団は街中を我が物顔で闊歩し、目が合ったと言っては暴行し、うら若い日本女性を目に止めると路地裏に引き摺り込んで強姦した。戦後、朝鮮人は日本に強制連行され、故なく差別され続けた被害者を演じているが、それは大嘘である。被害者は日本人で、不当に居座った朝鮮人こそが一貫して加害者であった、と言うのが真相である。

「朝鮮進駐軍」には、日本人側に不利であろうGHQによる不確かな調査だけでも4000人以上の日本人が虐殺され、略奪、暴行、強姦、襲撃は数知れなかった。そしてその罪は未だに一切償われていない。朝鮮半島に於ける「和夫一家惨殺事件」、李承晩 韓国初代大統領の命令の下、敢行された「竹島強奪」に際しては、日本人漁民44人が殺傷され、3929人が拉致された事実も決して忘れてはならない。朴正煕韓国大統領は、その4000人近い〈人質〉を取った状態で、日韓基本条約を有利に進めた汚い男である。

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏した。天皇陛下の詔勅により日本国民は従容として敗戦を受け容れた。併し、それに乗じて大混乱を引き起こしたのは、日本人と大東亜戦争を共に戦った朝鮮人と一部の台湾人だった。GHQは当初、朝鮮人と台湾人が日本の植民地下で虐げられていたという米国に都合の良い前提で、日本人側か戦勝国側かの法的地位を明確にしないまま、日本人とは区別して扱った。所謂、第三国人扱いである。GHQの曖昧な態度を良い事に、彼らは戦勝国側の人間として扱われるべきだと主張しだし、次第に日本人に対する不法行為を公然と働きだした。

特に悪質だったのは、連合国進駐軍の威を借りた「朝鮮進駐軍」を僭称する3万人もの朝鮮人集団であった。彼らは拳銃や日本刀・鉄パイプ等で武装し、武器を持つ事を許されなかった当時の無力な警察を襲い、敗戦に打ち拉がれた日本人を襲い、土地金品の略奪、銀行襲撃、刑務所襲撃、役場襲撃を始め、殺人、強盗、暴行、強姦を欲しいままにした。GHQの記録に残っているだけでも4000人以上の日本人が朝鮮人たちに殺害されたのである。それらの犯罪の殆んどは裁かれず、未だに償われていない。現在の日本に住む〈在日韓国朝鮮人〉とは、そうして日本に不当に居座った、日本に住む権利すら無い残虐な無法者の末裔なのである。この史実を何故か日本政府・文科相は国民に隠している。

極めつきは、1946年12月20日に起きた首相官邸襲撃事件であった。1万人以上の朝鮮人が結託して首相官邸に突入したが、敗戦国日本の警察は武器の携行を許されていなかった為、手に負えず、米国憲兵隊が出動して漸く鎮圧された。彼らの不法行為を見兼ねて、任侠ヤクザ集団が立ち上がり、無力な警察の代わりに朝鮮進駐軍と市街戦を演じ、日本人を護った事もあった。事ここに至ってGHQも漸く事態の深刻さに気づき、在日朝鮮人は日本の国内法に従うべきとの通達を出した。

ここで、記録に残る主な事件を簡単に説明する。

▪️生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
兵庫県生田警察署では、岡山市内で発生した7人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡山県警察部の捜査員に協力した。その後1945年12月24日午後9時、「岡山の刑事を出せ!」と叫ぶ50人以上の朝鮮人の集団が署内に乱入して、拳銃・ 日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し回った。岡山県の捜査員たちは脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部との連絡を絶った。急を聞いたGHQの憲兵がジープで駆けつけて漸く事態を収拾さた。
また翌年1月9日、生田署が三宮ガード下で賭博団を検挙すると、30~40名の朝鮮人たちが再度署内に乱入し、検挙者を奪還しようとしたが、生田署はこの暴徒を制圧し、GHQの憲兵と協力して首謀者とみられる3名を検挙した。

▪️直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとした所、居合わせた日本人乗客に注意されて乗り込む事ができず、デッキに振ら下がって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、スコップで滅多打ちにして殺害してしまった。誰も止めに入る日本人は居なかった。日本人の多くは、敗戦とGHQの洗脳により、臆病者に成り下がっていた。それは現在も変わっていない。
朝鮮人3名はその後逮捕されたが、後に全員逃走してしまい、結局うやむやにされてしまった。余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止する為に、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。このような事例は当時、日本各地で続発していた。

▪️首相官邸デモ事件(1946年12月20日)
宮城前広場(現在の皇居前広場)に於いて、朝鮮人約2000名が生活権擁護人民大会を開催し、終了後 首相官邸にデモ行進を行なった。この時の一隊が官邸に 押し入ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突して大乱闘となり、警察官の拳銃2挺、実弾が奪われた。この為、武装警官358名、GHQ憲兵20名が応援出動して制圧し、首謀者15名を検挙して身柄はGHQ憲兵隊に引き渡された。彼らは軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。

これら以外にも「朝鮮進駐軍」の度を越した乱暴狼藉には枚挙に暇が無い。参考までに、事件名を列挙する。 
▪️阪神教育事件(1948年4月23日~25日)
▪️枝川事件(1949年4月6~13日)
▪️第二神戸事件(1950年11月20~27日)
▪️王子事件(1951年3月7日)
▪️半田・一宮事件(1951年12月3日~11日)
▪️岡山事件(1952年4月24日~5月30日)
▪️血のメーデー事件(1952年5月1日)
▪️万来町事件(1952年5月31日~6月5日)
▪️吹田・枚方事件(1952年6月24日~25日)
▪️新宿駅事件(1952年6月25日)
▪️大須事件(1952年7月7日)
………これら以外にも、朝鮮人は数え切れない程の犯罪行為を日本人に対して働いている。

繰り返すが、彼ら朝鮮人たちは断じて〈被害者〉などでは無く明確に〈加害者〉である。日本がサンフランシスコ講和條約に調印し、晴れて国際社会に迎えられると、国内の治安も回復した。その頃から〈在日韓国朝鮮人〉たちは、「旧日本軍に強制的に連行されて来た私たち朝鮮人は、何も悪い事はしていないのに、不当に日本人から差別を受けている」と〈被害者〉を演じ始め、団体で様々な権利を要求し、現在の「在日特権」を獲得したのである。

朝鮮総連が、公安警察に監視されたり、公安調査庁の「調査対象団体」に指定されているのは、過去にこれだけの悪行を為したからである。未だ解決されていない、横田めぐみさんを始めとした多数の日本人拉致被害者にも朝鮮総連が関与している。一時期を除いて、戦後長きに亘り政権政党に就いている自民党は、これらの事件を放置し続け、解決すべく具体的努力もしていない。自民党政権に代わる真面な政党が出現しない事に忸怩たる思いを禁じ得ない。韓国・北朝鮮と在日韓国朝鮮人が為した歴史の闇にメスを入れる政権政党が果たして出現するだろうか? 日本の未来を考えると暗澹とした思いにならざるを得ない。

併し、どのような時代も何れ代わる。それを期待して、日本人子々孫々の為に、私たち日本国民は闘い続けなければならない。長い闘いになろうが、私たちは絶対に負ける訳にはいかないのである。

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▪️日本人四千人以上を虐殺した「朝鮮進駐軍」!
http://kome911.blogspot.jp/2011/08/blog-post_08.html?m=1