《 日本政府は有事の備えはできているか? 今一度、国家の責務を思い出せ。》

外務省の海外在留邦人数統計によると、2015年(平成27年)10月1日現在の推計で、在外日本人数は、永住者・長期滞在者合わせて、131万7,078人居るとされる。中華人民共和国には131,161人、大韓民国には38,708人の日本人が居住している。何れの国も日本に敵対している。憎み、敵愾視していながらその日本に公称50万人〜100万人単位で居住している。

2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災の時、東北に居た18万人の支那人は実に秩序正しく東北を離れ、何万人もが静かに日本を去った。2011年10月、カダフィ大佐殺害に至る騒動の最中に36000人いた筈の支那人の姿はリビアには無かった。

2014年(平成26年)5月14日、ベトナムが排他的経済水域を主張する南シナ海域で、中共が石油採掘装置を設置した事から、ベトナムで抗議運動が激化。中共企業を狙った破壊行為、暴動が多発した。この時、7000人の支那人が、2機の旅客機と2隻のフェリーで迅速にベトナムから退去した。

中共政府は各国駐在大使館に、在留支那人の携帯電話を全て把握し、一斉通信の連絡網でも構築しているのだろうか?何れにせよ自国の人民を護る手段は確りと講じている。救出・輸送手段も幾通りも用意してあるのだろう。国家として当然である。

一方、日本政府はどうだろうか? 1980年(昭和55)に始まったイランとイラク戦争では、日本政府は215人の在留邦人を見捨てた。この時点で国家として失格である。イラン・イラク戦争は5年間続いた。外務省が邦人に国外退去を指示すべき時間は充分にあった。併し、日本政府・外務省は何の手も打たなかった。

事態が切迫して事の重大性に気づいた時は手遅れであった。憲法上紛争地に自衛隊機は派遣できない。日本政府は日本航空にチャーター便の派遣を依頼したが、日本航空のパイロットと客室乗務員が組織する労働組合は、組合員の安全が保障されない事を理由にいずれもこの要請を拒絶してきた。

こういう時こその日米同盟だと思うが、米国から色良い返事は来ない。日本は自国民の救出の為の輸送機すら送れない無力で、情けない国であった。「日本航空は飛んで来ない」との一報に、イランにいた日本人は絶望の淵に沈んでいた。

この時、日本を救ってくれたのが、トルコであった。イラクのフセイン大統領は、イラン領空を「戦争空域」と宣言し、民間航空機もすべて撃ち落とすという、歴史的にも類を見ない声明を出していた。その危険空域にトルコ航空機2機が乗り込んで、手をこまねく日本政府を尻目に、在留邦人全員を救出してくれた。

その時のトルコ航空機の機長のひとり、故オルハン・スヨルジュ氏は100年前に日本の紀伊大島沖で遭難し、和歌山県民が命懸けで救出した、トルコの軍艦エルトゥールル号の乗組員の末裔であった。

エルトゥールル号遭難事件とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が、現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し600名近くの犠牲者を出した大事件である。この事件こそが、日本とトルコの友好関係の始まりである。

戦前の日本を暗黒時代と描きたいという捻じ曲がった発想のもとにつくられる日本の教科書には当然載っていないようだが、トルコでは現在でも小学校の教科書に載せており、この大事件を知らないトルコ人はいないという。

現在、和歌山県串本町とトルコのヤカケント町、メルスィン市は姉妹都市である。樫野崎灯台そばには、エルトゥールル号殉難将士慰霊碑およびトルコ記念館が建っており、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年毎に行われている。

木造フリゲート・エルトゥールル(1864年建造、全長76m)は、1887年(明治20年)に行なわれた小松宮ご夫妻のイスタンブール訪問に応える事を目的に、オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて、大日本帝国へ派遣される事となった。

1889年(明治22年)7月14日、イスタンブールを出港。数々の困難に遭いながらも、11ヶ月をかけて翌1890年(明治23年)6月7日に、漸く日本に到着した。横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。

エルトゥールルは出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。また、多くの乗員がコレラに見舞われた為、9月15日になって漸く横浜出港の目処をつけた。そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールルの消耗ぶりをみた日本側が、台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側は、その制止を振り切って帰路についた。

このように無理を押してエルトゥールル号が派遣された裏には、インド・東南アジアのイスラム教徒にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まり続ける事で、オスマン帝国海軍の弱体化を流布される事を危惧した為と言われている。遭難事件はその帰途に起こった。

樫野埼灯台下に流れ着いた生存者の内、約10名が数10mの断崖を這い登って灯台に辿り着いた。灯台守は応急手当てを行なったが、言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦である事を知った。通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。

この時、台風により出漁できず、食料の蓄えも僅かだったにも関わらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還する事が出来た。その一方で残る587名は、死亡または行方不明となる大惨事となった。

このとき、新聞を通じて大島村民による救助活動や、日本国民からの義援金、日本政府の尽力が伝えられ、当時オスマン帝国の人々は、遠い異国である日本と日本人に対して、大変感謝したといわれている。トルコ人が公的な場で日本人に対して日土友好の歴史について語る時、必ずといっていいほど第一に持ち出されるのがエルトゥールル号遭難事件の顛末である。

野村豊イラン駐在大使が、トルコのビルレル駐在大使にイラン・イラクに取り残された邦人の窮状を訴えたところ、ビルレル大使は「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰もが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも。」と答えたという。

大使の要請を受けたトルコ航空は自国民救援のための最終便を2機に増やし、エルトゥールル号の生存者の末裔の機長オルハン・スヨルジュ氏(故人)らがフライトを志願。215名の日本人はトルコ経由で無事、帰国を果たせた。

この事件から26年、日本は独立国家の名に恥じぬ国に生まれ変わっただろうか?甚だ疑問である。敗戦後71年、反日国は様々な嫌がらせを仕掛け続けている。日本政府はいい加減に目を醒まして、反日工作に耐えながら援助し続けるという、自虐的な外交姿勢を改めて、友好国と反日国を確りと峻別して、相手国に相応しい外交を展開するべきである。

現在、中共国内に現在13万人以上が、韓国には3.8万人以上の日本人が暮らしている。日本では憲法改正は遅々として進んでいない。自衛隊法も画期的には変えられていない。従って紛争地には自衛隊機を送り込めない。中韓両国は平時でも自衛隊機を受け入れまい。日本政府は日本国民を救助できるような法整備を真剣に進めるべきである。日本という国は、自他共に認める先進国でありながら、「自国民を護る」という最低限の国家としての責務を果たせない国なのだから。