《「事大主義」では済まされない、朝鮮民族の忌まわしき集団的民族感情。》

私は日本軍の南アジアの占領地で、自ら望まぬ慰安婦にされた老婆の話を聞いた事がある。慰安所で嫌々、日本兵とのSEXをさせられたその老婆が、日本兵を、日本人を恨む感情を持って後の人生を送ったのは当然であると思う。その老婆が嘘を吐いていたとも思わない。併し、時代背景、その場の状況を考慮すれば、それが「当時の最善の方法」であったとも敢えて考える。

他国の場合はもっと苛酷であった。満州からの引き揚げ途中で強姦により妊娠させられた女性が駆け込んだ「二日市保養所」のある日の記録によると、強姦被害者20人の加害者内訳は現在の日本人にとっては意外であろう。「朝鮮人14件・ロシア人4件・支那人、台湾人が各1件」であった。日本の婦女子に対しては「朝鮮人」が最も苛酷であった。強調したいのは「朝鮮人」レイプ魔の方が戦後言われている以上に「ロシア人」を圧倒している事である。

朝鮮人の国民性を「事大主義」とよく言う。強い者には卑屈なほど尻尾を振るが、相手が弱者と見ると急に威丈高・尊大になる。「事大主義」では済まされない理不尽を、日本人は敗戦と同時に豹変した朝鮮人の態度に見た。枚挙に暇は無いが今回はひとつの事件に絞って検証してみたい。鬼畜にも劣る朝鮮人の豹変振りを如実に示すある忌まわしい事件がある。

「和夫一家殺害事件」と言うのが記録に残っている。

▫️▫️▫️和夫氏は、日帝時代によく見られた、慶尚道地方の日本人地主だった。地主とはいうものの、和夫の家族は日本政府の朝鮮移住政策に従って、乗り気ではなかった朝鮮生活を始めた。公務員だった和夫は、政府の命令に従って仕方なく朝鮮へ赴任したのだ。そのころの日本は、一種の軍事独裁体制で、政府の命令に従わなければ直ぐに売国奴として排斥されそうな雰囲気があった。
 
当時、朝鮮にいた日本人地主の中には、朝鮮人の小作人たちから、法の規定以上の小作料を取り立てる、怪しからぬ人々もいたが、普段から人情味の厚かった和夫は、小作料を収穫全体の十分の一とし、村人たちを家族のように見做して喜びも悲しみも共にした。自分たちの生活が困らなかったので、総督府の法令に従って、止むを得ず受け取らなければならない最小限の小作料だけを取っていたのである。

貧しい小作人が食料が無いと泣きつけば、喜んで食べるものを分けてやったし、村で誰かの葬礼があれば、家族総出で駆けつけ、食事の支度は勿論、自ら慟哭して、悲しみを分かち合う事もあった。このように、和夫は人間への温かい愛情を持った真の人間だった。

また、和夫は近くに行き場のない孤児が居ると、連れ帰って面倒を見ていたがその数は、一人、二人と増え、四〜五年経つと何時の間にか私設孤児院規模にまで増えてしまった。けれども、和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し、自ら喜んで彼らの父、母を称した。和夫の家族は普段からこのように朝鮮人を愛し、日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。併し、彼らは、日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日、自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害された。

その日、正に万歳の声と共に太極旗が波のように風になびきつつ、朝鮮人の世がやって来た。育て、東京帝国大学に留学までさせたAの主導下に、彼の家で教育を受け、育ち、成人した青年は、自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと、和夫に嫉妬したのか?彼が我が子のように育てた少年たちが、斧と鍬、スコップを手に、和夫のもとに押しかけた。そのとき現場にいた金ソンス君は、次のように証言している。

和夫:(穏やかな目で)なんでこんな事を、子供たちよ。

A:チョッパリ! 日本へ失せろ、失せちまえ。
和夫:(怒ったような声で)私が、お前たちにどんな間違いをしたと言うんだ。お前たち、皆が私の息子だ。私はこの家の家長であり、お前たちの親だ。お前たちの祖国が解放された事は、私も普段から待ち望んできた事だ。踊りでも踊りたい気分の日に、なんだって凶器をもって私の所に詰めかけたりするんだ。私は決してお前たちをそんなふうに教育した覚えはない。(涙を流しながら)本当に悲しい事だ。朝鮮の息子たちよ。私が愛を傾け、育ててきた結果は、詰まるところ日本人と朝鮮人は融和できないという事なのか。お前たちが望むなら帰ってやるわ。

A:意味深長な目配せをBに送る(財産をすっかり処分して帰ったら、俺たちはどうやって喰っていくんだ?)

B:死ね、チョッパリ、シッパルノマ!
間髪入れず鍬が、和夫の後頭部に振り下ろされたのと同時に、数多くのスコップと斧が彼の体をずたずたに引き裂きはじめた。この時、和夫の妻が我慢できずに飛び出してきた。それまで黙っていたCは、和夫の妻を見て、彼女の長い髪を掴み、庭の奥まった所に引き摺って行った。そしてなんと13人がかりで、ほんの一週間前までお母さんとして恭しく仕えていた彼女を、強姦し始めた。

(金ソンス君は、この期に及んで自分が止めに入ったら、自分も殺されただろうと言った)。強姦に耐えられなかった彼女は、行為の途中で死亡し、Dは、普段お母さんと呼んでいた彼女の全身を滅多刺しにするだけでは足りず、内臓を引き摺り出して、まき散らした。
 
和夫には、一人の幼い娘がいた。ふだん模範的でいい子だったヒミコさんは、放課後、家に帰ってきて、両親の身に起こった惨状を見、気が触れてしまった。ヒミコが何日間も慟哭する声に、近隣住民たちは眠れなかったそうだ。その後、孤児になったヒミコは、食べ物を乞おうと、その付近を彷徨ったが、朝鮮人は誰一人彼女に目もくれず、知らないふりをした。

結局、彼女は9日後、村の橋の下で痩せ衰えた死体となって発見された。当時、ヒミコは小学校6年生の幼子だった。和夫の財産は、勇猛で愛国心に燃えたつ朝鮮の青年たちの手にそっくり渡り、この事件は村人たちの沈黙の中、次第に忘れられて行った。▫️▫️▫️

大東亜戦争に於ける日本の降伏以後,北朝鮮地域にはソ連軍が素早く進駐し、軍政を敷いたが、南朝鮮に米軍が上陸したのは9月中旬だった。従って1箇月程度、南朝鮮地域には無政府状態が続いた期間があった。朝鮮半島には、様々な理由で日本人とそれに加担した者たちに恨みを抱く朝鮮人たちが多かったろうし、実際に彼らは多くの日本人を殺し、財産を強奪し、日本女性たちを強姦した。

何という鬼畜民族であろう。呉善花 氏や「親日家のための弁明」を書いた金完燮 氏の様な人の心を理解できる韓国人も少数ではあるが、確かに居られるが、総体としての朝鮮民族は間違いなく『気狂いの集団』である。私は〈3.11のツナミ〉をモチーフにした〈ツナミ型のソウル市庁舎〉を見るに付け、総体としての〈韓国人の狂気〉を感じざるを得ない。それに何の抗議もしない日本政府・マスメディアも異常と言えば異常である。

「3.11の天災・人災」は全ての日本人が喪に服する日である。それを喜び、市庁舎のデザインに取り入れ、実際に建ててしまう。そこに日々、職員が働き、日々、市民が訪れる。ツナミ型の建物を見上げて韓国人の心は晴れるのだろうか? それこそ『韓国人は気狂い』である事を証明している。