《白人のアジア植民地政策を見て、短期間で近代国家を樹立した日本人》

日本が「鎖国」を墨守している間に世界情勢は大きく転換し、欧州は封建社会から資本主義社会へと目覚ましく進展した。18世紀末には英国 産業革命、続いて米国の独立とフランス革命が起こり、やがて米仏両国でも産業革命が開始された。これに並行して欧米列強は植民地や市場を求めて、競ってアジア侵略を開始した。

近代化の遅れたロシアも帝政下シベリア進出を続けて、早くも19世紀の初めに日本の北辺蝦夷地に出没するようになった。幕府は松前奉行を置き、北辺の探検や警備によってこれに対処した。ロシア帝国の使節ラクスマンが根室に来航したのは1792年。続いてレザノフが長崎に来て幕府に通商を求めたが、日本はこれを無視した。

英国は、日本で関ヶ原の合戦があった1600年には、早くも東インド会社を設立し、アジア侵略を開始している。英国はナポレオン戦争を機に、フランスに支配されたオランダの海外植民地を攻撃し、バタビアを占領。更に世界中でただ一国、日本で国旗をはためかす、オランダの長崎出島の占領を図った。

1808年、英国軍艦フェートン号はオランダ国旗を掲げて長崎に入港、オランダ商館員を脅し、これを人質にして乱暴を働いた。このため時の長崎奉行は引責自刃した。このフェートン号事件は、日本人に英国の強暴さを認識させ、更に広く海外情勢に注意を向けさせる事となった。以後日本では、フランス革命やナポレオンに関する研究が盛んになった。

英国は、印度産の麻薬のアヘンを支那に売り込んで巨利を貪っていたが、支那に拒否されアヘン戦争を仕掛け、香港を奪取した(1840~42年)。アヘンはヘロイン、コカインなどと同じ麻薬で、常用すれば心身を崩壊させる恐ろしい毒薬である。現在世界中がこの輸入を禁止している。英国は国家が公然と麻薬貿易を許し、力ずくで売り込んで支那人を堕落させようとした。これほど不道徳で恥知らずな戦争は、嘗て歴史上になかった。これが仮面の下の大英帝国の正体である。

併し、支那人たちは現在、世界中でただ一国、日本のみを侵略国家と非難し続け、英国に仕掛けられた人類史上最も不道徳で恥知らずな侵略戦争には一貫してひと言も非難がましい事を言っていない。支那人たちの歴史観がプロパガンダと言われる所以である。彼らが他国を非難する時は必ず政治的意図が隠されているのである。今、英国を非難しても何の得も無いが、アジア地域の覇権を唱えるには何としても日本を抑え込んでおきたいのだ。日本人はこの支那人たちの独特な歴史観を忘れてはいけない。

天保11年に起こったアヘン戦争で、アジアの強国を任じていた清が、英国に簡単に大敗した事は、幕府をいたく驚かせた。次は日本がやられると、幕末の志士たちは一斉に日本の危機を痛感した。特に長州の藩士 高杉晋作は上海に渡りアヘン戦争の惨状をつぶさに視察し、帰国後、国防の必要性を強調した。

アヘン戦争から10年後、今度は米国のペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に姿を現し、砲艦外交で開港を強く迫った。それは嘉永6年(1853年)6月3日の事であった。ペリーの来航は、幕府は勿論、江戸市中を大混乱に陥れた。庶民は初めて見る蒸気船を「黒船」と称して恐れ、避難のため右往左往し、太平に慣れた武士も俄かに武具を備える有様であった。

ペリーは一旦は帰国したが約束通り翌嘉永7年、軍艦7隻を率いて浦賀に入港、江戸湾を測量して武威を示した。幕府はその威嚇に屈伏し、同年3月3日、日米和親条約を、安政5年(1858年)には日米修好通商条約を締結させられた。

これを見て列強のオランダ、英国、フランス、ロシア帝国からも、同様の条約を締結させられた。これらの条約は何れも相手国の治外法権を認め、日本の関税自主権は認められぬという不平等条約であった。列強が一斉に日本に殴り込みをかけてきたのである。このままでは日本は欧米勢力に呑み込まれてしまう。この国難的危機をどう乗り超えるか。ペリー来航から明治維新を迎えるまでの15年間、国内は開港か攘夷か佐幕か勤王か、所謂 幕末の大動乱が続くのである。

民族の内部が各派に分かれて闘争し、騒然たる無秩序状態の時こそ西欧列強には侵略のチャンスである。フランスは幕府を支持し、英国は反幕派を応援したりして、動乱を煽動する事につとめた。

1858年、井伊直弼が大老に就任するや尊皇攘夷論者への弾圧が始まり、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎ら多数の志士が「安政の大獄」で処刑された(1859年)。

文久2年(1862年)8月、薩摩藩主の父 島津久光一行が江戸よりの帰途、相模の生麦で、行列を横切った英国人数人を藩士が斬りつけ負傷させるという生麦事件が起こった。翌年英艦は報復のため鹿児島を砲撃した。薩英戦争である。

その翌年英米仏蘭の4箇国16隻の連合艦隊が長州の下関を砲撃し、3日間で全砲台が破壊、占領された(下関戦争)。薩摩と長州はこの戦いで列強の近代兵器の威力を存分に思い知らされた。幕末の薩英戦争と下関戦争は、日本の初めての西欧に対する防衛戦で、然も大敗し、身を以って列強の力に脅威を感じた。国内で〈日本人同士が争っている場合ではない。早く国論を統一して外患に当たらねば、日本は滅亡してしまう〉という危機感に襲われた。

このため坂本龍馬の斡旋で薩長同盟が成り、幕府の大政奉還、王政復古を早め、江戸城無血開城が実現した。そして天皇中心の「錦の御旗」の下、新政府で国論を統一し、明治維新を迎える事ができた(結局は英国の子分となったのだが…)。幕末は日本があわや西洋勢力に呑み込まれようとする累卵の危うきにあった。これを救ったのは、各藩の下級武土達が幕府や藩の利益を超えて、日本という国のために一致団結する必要を痛感したからである。〈江戸時代に培った武士道や大和魂の賜物〉であった。

幕府の最後の将軍 徳川慶喜が尊王論の水戸学発祥の地、水戸藩から出た事が幸いしたのだ。慶喜は天朝に専ら恭順を示し、大政奉還をスムーズに移行させる事ができたからである。フランス革命なら慶喜はギロチンの露と果てる筈であった。それが幕府側にも天朝側にも犠牲者がなく無血革命ができた。慶喜はその名の通り両勢力に喜びを与えた。当時の日本人は国難にあって〈危機に対する身の処し方〉を心得ていたのである。

1808年の「フェートン号事件」から、1862年の「生麦事件」までの54年間、日本が植民地主義の犠牲にならなかったのは幸いであった。日本には各所に城が築かれ、教育水準の高い武士階級が存在した。一般庶民の識字率も高く、何よりも衛生的であった。欧米人は日本をアジア一の文明国と看做していたから、簡単には植民地にし難かったのであろう。

1863〜64年の下関戦争の惨敗から、1868年の明治政府樹立まで、僅か4〜5年しか要していないのは驚きである。国家存亡に当たって立ち上がった「名も無き下級武士たち」が、初めて日本という国家を意識し、旧来の体制を打ち破り、私欲を捨てて一致団結できた事は、日本人の誇りとして語り継がれるべきである。文科省には「明治維新」という人類史的偉業を先人たちが成し遂げた史実を正確に伝え、現代の日本の子供たちに自分の国に誇りを持てるような自信を付ける教育を心掛けて欲しい。