《 忘れてはならない、占守島(しゅむしゅとう)の誉れ高き防衛戦 》

旧ソ連邦から北方領土の不当領有を引き継いだロシアのプーチン大統領が間もなく来日する。日本側は北方領土返還交渉の好機と捉え、ロシア側は日本からの経済・技術協力を得る好機にしたいとの狙いを持っての首脳会談である。日本国民は今回の交渉結果に甘い幻想を抱いてはいけない。プーチン氏は橋本龍太郎政権の時代から、「戦後の現実を認めようとしない勢力」として〈北方領土の返還要求する勢力〉を〈悪〉と見做し非難し続けてきた。極一部と雖(いえど)も北方領土を安易に返還するとは思えない。プーチン大統領が〈喰い逃げ〉を狙っていないとも限らない。

そもそも北方領土とは日本政府が矮小化してしまったような北方四島のみを指してはいない。歴史的に「南樺太・千島列島を含む北方四島」全体が日本がロシアに返還要求すべき「北方領土」の事なのである。サンフランシスコ講和会議で日本はこの「北方領土」全体の領有を放棄させられ、心ならずもそれを認めて講和条約を締結せざるを得なかったが、旧ソ連邦はサンフランシスコ講和会議に参加してはいなかった。〈日本はソ連に対しては何も放棄していない〉のである。

また、ヤルタ密約については、1956年に共和党のアイゼンハワー政権は「(ソ連による北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効である」との米国務省公式声明を発出している。更に、2005年にはブッシュ米大統領は、「ヤルタ合意は史上最大の誤ちのひとつ」とまで批判している。ロシアが〈本来の北方領土〉を領有する根拠は64年の長きに亘る「不当な実効支配の実績」だけなのである。

安倍首相を始め日本政府・外務省は、本来の「北方領土」が旧ソ連邦(現ロシア)が、不当に、さながら火事場泥棒のように日本から掠め取ってしまった史実と、戦勝国を代表する米国の公式見解を良く良く理解した上で、首脳会談に臨んでいただきたい。以下に本来の「北方領土」である占守島(しゅむしゅとう)の戦いについて記述する。「占守島」とは日本に返還されるべき千島列島の最北端の島である。

占守島の戦いとは、大東亜戦争末期の1945年(昭和20年)8月18日 〜21日に、千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である。ポツダム宣言受諾により大東亜戦争が停戦した後の8月18日未明、日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連軍が占守島に奇襲攻撃、「ポツダム宣言受諾に従い武装解除中」であった日本軍守備隊と戦闘となった。

戦闘は日本軍優勢に推移するも軍命により21日に日本軍が降伏し停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。捕虜となった日本兵はその後、大勢が法的根拠無く拉致され、シベリアへ抑留された。その数凡そ25000人。

1945年2月のヤルタ会談で結ばれた秘密協定では、ソビエト連邦が日本との戦争に参戦する事、その場合は戦後、北緯50度線以南の樺太南などをソ連に返還し、千島列島については引き渡す事がルーズベルト、チャーチル、スターリンにより勝手に決められていた。

8月15日に米国の後任大統領トルーマンが、ソ連のスターリンに送った日本軍の降伏受け入れ分担に関する通知では、千島列島についてソ連の分担地域とは記されていなかった。その為、ソ連側は千島列島及び北海道北東部(釧路〜留萌を結んだ直線以北)をソ連担当地区とする事を求め、米国も17日付の回答で千島列島については同意した。

日本側は、陸軍第5方面軍の諸部隊が、対米国戦を予想して占守島・幌筵島の要塞化を進めていた。1945年(昭和20年)になると本土決戦や北海道本島防衛の為、兵力が引き抜かれたが、終戦時点でも第91師団(2個旅団基幹)を擁していた。

また、これまで北方方面は殆んど戦闘がなかった為、食糧・弾薬の備蓄が比較的豊富であった。更に、満州から転進した精鋭の戦車第11連隊も置かれていた。併し、航空戦力は陸軍飛行戦隊と海軍航空隊を合わせても、わずか8機の旧型機が残っていただけであった。この戦闘に直接関わった日本軍は在 占守島の8,500人のみで残りの兵力は幌筵島にあった。

15日、日本軍のポツダム宣言受諾が公表され、正午には〈ソ連軍を除く連合軍は積極行動を停止〉し、大部分の戦線で停戦状態となった。併し、同日夕刻には国籍不明機が占守島を爆撃している。

17日午前5時、ソ連軍の上陸船団は泊地から出航し、途中からは無線封鎖して前進。同日午前6時半頃には、海軍飛行連隊の3機が占守島の偵察と爆撃を行なった。更に、同日の日中には第128混成飛行師団所属機が占守島の軍事目標に対して連続爆撃を行なった。

他方、日本軍は8月15日の玉音放送に続き、北海道の第5方面軍から「18日16時の時点で停戦し、こちらから軍使を派遣」「その場合も、なお敵が戦闘をしかけて来たら、自衛の為の戦闘は妨げず」との命令を受けた。17日までには各部隊に伝達されて、戦車の備砲を撤去するなど武装解除の準備を終えていた。日本軍は、17日にカムチャッカ半島沿岸を舟艇多数が移動しているのは発見していたが、終戦後にソ連軍が侵攻する可能性はないとして、重視していなかった。

当初、日本側は上陸してきた軍を国籍不明としていたが、次第にソ連軍と認識するに至った。ソ連軍が占守島に上陸したとの報を受け、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、第91師団に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出した。師団長の堤中将は、池田末男大佐(死後、少将へ進級)率いる戦車第11連隊に対し師団工兵隊の一部とともに国端方面に進出して敵を撃滅するように命じた。

池田末男大佐は、日本軍嫌いの反日作家 司馬遼太郎が唯一尊敬した軍人である。大本営はマッカーサーにスターリンへの停戦の働きかけを依頼したが、スターリンはこれを黙殺した。

占守島には常住の民間人は別所二郎蔵氏一家を始め数家族のみであったが、夏季にだけ缶詰工場が稼働する為、多数の工員が島を訪れていた。1945年8月15日時点では、日魯漁業の缶詰工場が稼動しており、女子工員400〜500人を含む漁業関係者が在島していた。更に、会社経営の慰安婦も50名ほど取り残されていた。また、海軍施設の建設を請け負った民間作業員も残っており、民間人の総数は2,500人近くいた。

ソ連軍の占領地の女性に対する人権蹂躙は世界的に有名であり、ヨーロッパ戦線では、敗れたドイツ人女性の実に半数が強姦されたとの話である。池田末男大佐は、何としても女子工員達を犠牲にしてはなるまいと、悪天候の最中(さなか)女子工員達を船に分乗させて島を脱出させた。案の定、上陸してきたソ連兵は血眼になって女性の姿を探したという。

ソ連側は、海峡への進入は前日の停戦合意に基づく行為であったと主張し、日本軍の行為を停戦合意を無視した奇襲攻撃だとしている。日本軍は本当に強かった。併し、侵略などは断固していない。この時の戦いの大義は無辜の民を護る事のみであった。

日本軍は武装解除後分散された為、死傷者の正確な数をつかめなかったが、日本軍人による推定値として、日本軍の死傷者は600名程度、ソ連軍の死傷者は3000名程度との数値がある。

殆んど武装解除を終えていた日本軍は、魂と肉体を頼りに迎撃の先陣を切った。その日本軍にしてこの戦績である。ロシア、米国、中共が、未だに日本を警戒し、怖れるのは、この先人達の「鋼の如き勇猛さ」故である。彼等は英霊となって靖國神社ご帰還された。敵国が靖國神社参拝を怖れる所以であろう。

戦後、北海道に駐屯する陸上自衛隊第11旅団隷下第11戦車大隊は、占守島の戦いに於ける陸軍戦車第11連隊(通称 士魂部隊)の奮戦と活躍を顕彰し、その精神の伝統を継承する意味で、「士魂戦車大隊」と自ら称している他、部隊マークとして装備の74式戦車・90式戦車の砲塔側面に「士魂」の二文字を描き、その名を今なお受け継いでいる。

領土交渉に限らず、交渉ごととは一方の都合だけを押し付ける事ではなく、交渉相手の言い分にも耳を傾けなければ成り立たない。100%を求めては決裂は目に見えている。肝心なのは〈交渉に先立っての事実認識を正確に把握して交渉に臨む〉事である。安倍首相には、〈遠大な国家戦略の一貫〉としてプーチン大統領と交渉を進めて欲しい。拙速は禁物である。〈現実的という小さな果実〉に惑わされないで欲しい。例え何世代かかっても良いから、今回の首脳会談では、先人の犠牲を無にしない成果をあげる端緒を開いていただきたい。