《中共の白人コンプレックスと歪んだ反日感情、そして日本の誇るべき先人たち》


2014年の香港民主化デモ(雨傘革命)に於ける民主主義を求める学生たちの民主化への希望が打ち砕かれていく様を見せつけられるにつけ、中共という国の政治体制の醜悪さと「自由と民主主義」の有り難さをしみじみと感じる。香港が中共に返還された時、当時の中共の国家主席、江沢民氏は一国二制度を100年は堅持すると国際社会に約束したが、案の定、約束は守られる事なく中共の一部となった香港は確実に独裁体制の影に飲み込まれつつあるのが現状だ。


今、自由な社会を日本人が謳歌できるのは、アヘン戦争を見て危機感を感じた先人による『明治維新』の達成と、『大東亜戦争』を命懸けで戦い抜いてくれた先人のお陰によるものである。先人、英霊に対して常に感謝の気持ちを持ち続ける事を〈右翼思想〉と切り捨てて素直になれない一部の日本人は、既に日本人の心を喪っているのではないかと思う。


アヘン戦争の事を聞いた事もない日本人は少ないだろうが、その詳細を識る日本人も多くはないだろう。あの白人による卑劣で理不尽なアヘン戦争が日本の明治維新に繋がり、日本人が独自に文明開化を成し遂げる危機感・原動力となり「自由と民主主義」を自らの力で勝ち取ったのである。


1840年に始まった清と英国との間の戦争は、麻薬であるアヘンが原因となった為、「アヘン戦争」と呼ばれている。約2年間続いたアヘン戦争は、英国の圧倒的勝利に終わり、1842年、清は南京条約を結ばされた。


18世紀頃からヨーロッパでは、紅茶が大流行となり英国は清から大量の茶を輸入していた。併し、英国は清から茶を大量に購入するばかりで、清との間では大幅な貿易赤字が膨らんでいた。時計や望遠鏡などを輸出するものの、そんなものは清のごく一部の金持ちにしか売れない。そこで、メキシコやスペインから購入した銀を茶の代金にあてたが、直ぐに銀は清国内でだぶつく状態になった。


〈英国自身はアヘンを禁輸していた〉が、英国は利益率の高いアヘンを清に売り付ける事にした。当然の事ながら清もアヘンの輸入は禁止していたが、英国は恥知らずにもアヘンを執拗に押し売りした。そこには道徳心も何も無かった。英国人にとって所詮相手は自分たち白人とは違う劣等な有色人種である。既に衰退期にあった清の政府内では、賄賂を貰ってアヘン輸入を黙認する役人達が多勢 蔓延り、清国内にアヘンは瞬く間に拡まった。


アヘンの輸入額は茶の輸出額を上回り、清は嘗て英国から押し付けられた銀をアヘンの輸入代金に当てる羽目に陥った。これを国難と気づいた清の道皇帝は、アヘンを販売した者、アヘンを吸った者を死罪とする厳しい法律を作り、これに従った大臣 林則徐は英国商人からアヘン23千箱を没収し廃棄処分とした。


これに怒った英国の軍艦が清の沿岸に発砲し、アヘン戦争が始まった。英国とは何と身勝手で悪辣な国であろうか。圧倒的な英国海軍の前に清は成す術もなく敗北した。1842年、南京条約 調印で英国は香港島を占領した。戦争と呼ぶには、清に対する英国の軍事力は余りにも強力であり、史実は一方的な大量殺戮であった。


英軍は好んで一般国民を狙った訳ではないだろうが、艦砲射撃の犠牲者の多くが無辜の民である事は当然知っていたし、市街戦でも多くの庶民が殺された。ある市街戦では、英国兵39人に対し清側の犠牲者数3600逃げ場を失った多くの婦女子、老人などが犠牲になった。


アヘン戦争に於ける清の敗北以来、鎖国中の日本にも外国船が度々やって来るようになった。日本が「鎖国」を墨守している間に世界情勢は大きく転換し、欧州は封建社会から資本主義社会へと目覚ましく進展した。18世紀末には英国産業革命、続いて米国の独立とフランス革命が起こり、やがて米仏両国でも産業革命が始まった。


近代化の遅れたロシア帝国もシベリア進出を続けて、早くも19世紀の初めには日本の北辺の蝦夷地にロシア人が出没するようになった。幕府は松前奉行を置き、北辺の探検や警備によってこれに対処した。ロシアの使節ラクスマンが根室に来航したのは1792年。続いてレザノフが長崎に来て幕府に通商を求めたが、日本はこれを無視した。


英国は、日本で関ヶ原の合戦があった1600年には、早くも「東インド会社」を設立し、アジア侵略を開始している。英国はナポレオン戦争を機に、フランスに支配されたオランダの海外植民地を攻撃し、バタビアを占領。更に世界中でただ一国、日本で国旗をはためかす、オランダの長崎出島の占領を図った。


1808年、英国軍艦フェートン号はオランダ国旗を掲げて長崎に入港、オランダ商館員を脅し、これを人質にして乱暴を働いた。このため時の長崎奉行は引責自刃した。このフェートン号事件は、日本人に英国人の強暴さを改めて認識させ、更に広く海外情勢に注意を向けさせる事となった。以後日本では、フランス革命やナポレオンに関する研究が盛んになった。


天保11年に起こったアヘン戦争で、アジアの強国を任じていた清が、英国に簡単に大敗した事は、幕府をいたく驚かせた。次は日本がやられると、幕末の志士たちは一斉に日本の危機を痛感した。特に長州の藩士 高杉晋作は上海に渡りアヘン戦争の惨状をつぶさに視察し、帰国して国防の必要性を強調した。


アヘン戦争から10年後、今度は米国のペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に姿を現し、砲艦外交で開港を強く迫った。それは嘉永6年(1853年)63日の事であった。ペリーの来航は、幕府は勿論、江戸市中を大混乱に陥れた。庶民は初めて見る蒸気船を「黒船」と称して恐れ、避難のため右往左往し、太平に慣れた武士も俄かに武具を備える有様であった。


ペリーは一旦は帰国したが約束通り翌嘉永7年、軍艦7隻を率いて浦賀に入港、江戸湾を測量するなどして武威を示した。幕府はその威嚇に屈伏し、同年33日、日米和親条約を、安政5年(1858年)には日米修好通商条約を締結させられた。


これを見た列強の蘭、英、仏、露からも、同様の条約を締結させられた。これらの条約はいずれも相手国の治外法権を認め、日本の関税自主権は認められぬという不平等条約であった。列強が一斉に日本に殴り込みをかけてきたのである。このままでは日本は欧米勢力に呑み込まれてしまう。この国難的危機をどう乗り超えるか。ペリー来航から明治維新を迎えるまでの15年間、国内は開港か攘夷か佐幕か勤王か、所謂 幕末の大動乱が続くのである。


民族の内部が各派に分かれて闘争し、騒然たる無秩序の時こそ欧米列強の侵略のチャンスである。フランスは幕府を支持し、英国は反幕派を応援したりして、動乱を煽動する事につとめた。


1858年、井伊直弼が大老に就任するや尊皇攘夷論者への弾圧が始まり、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎ら多数の志士が「安政の大獄」で処刑された(1859年)。


文久2年(1862年)8月、薩摩藩主の父 島津久光一行が江戸よりの帰途、相模の生麦で、行列を横切った英国人数人を藩士が斬りつけ負傷させるという「生麦事件」が起こった。翌年英艦は報復のため鹿児島を砲撃した。薩英戦争である。


その翌年、英米仏蘭の4箇国16隻の連合艦隊が長州の下関を砲撃し、3日間で全砲台が破壊、占領された(下関戦争)。薩摩と長州はこの戦いで列強の近代兵器の威力を存分に思い知らされた。幕末の薩英戦争と下関戦争は、日本初の西欧に対する防衛戦で、然も大敗し、身をもって列強の圧倒的武力の脅威を思い知らされた。


当時の日本人は『国内で日本人同士が争っている場合ではない。早く国論を統一して外患に当たらねば、日本は滅亡する』という強烈な危機感に襲われた。


このため坂本龍馬の斡旋で薩長同盟がなり、幕府の大政奉還、王政復古を早め、江戸城無血開城が実現する。そして天皇中心の「錦の御旗」の下、新政府で国論を統一し、明治維新を迎える事ができた。内実は結局は英国の子分となったという見方もある。


幕末は日本があわや西洋勢力に呑み込まれようとする累卵の危うきにあった。これを救ったのは、各藩の下級武土達が幕府や藩やそして自らの利益を超えて、日本という国の為に一致団結する必要を痛感したからである。『江戸時代に培った武士道や大和魂の賜物』であった。


幕府の最後の将軍 徳川慶喜(よしのぶ)が尊王論の水戸学発祥の地、水戸藩から出た事も幸いした。慶喜は天朝に専ら恭順を示し、大政奉還をスムーズに移行させた。フランス革命なら慶喜はギロチンの露と消えたであろう。それが幕府側にも天朝側にも犠牲者のない無血革命ができたのである。慶喜はその名の通り両勢力に喜びを与えた。国難にあって『危機に対する身の処し方』を心得ていたのである。


1808年の「フェートン号事件」から、1862年の「生麦事件」までの54年間、日本が植民地主義の犠牲にならなかったのは誠に幸いであった。日本には各所に城が築かれ、教育水準の高い武士階級が存在した。欧米人から見ても武士階級の存在は侮れない戦闘集団と映ったのである。一般庶民の識字率も高く、何よりも衛生的であった。欧米人は日本をアジア一の文明国と看做していたから、簡単には植民地にし難かったのであろう。


186364年の下関戦争の惨敗から、1868年の明治政府樹立まで、僅か45年しか要していないのは驚きである。国家存亡の危機に直面して立ち上がった「名も無き下級武士たち」が、初めて日本という国家を意識し、旧来の体制を打ち破り、私欲を捨てて一致団結できた事は、日本人の輝かしい誇りとして語り継がれるべきである。こういう史実を誇りを持って日本の子供たちに教育しないのは大きな間違いである。


それにしても、中共の習近平氏は日本に35百万人も4千万人も虐殺されたと、数字を捏造してまで日本への過去の恨み言を折に触れ言い募るが、アヘン戦争で割譲に追い込んだ英国に対しては、恨みがましい事は一切口にせず、香港返還時には英国皇太子チャールズを招いて華々しい式典を催した。日本と英国に対するこの違いは、日本人ならずとも理解不能である。白人に対する拭い難いコンプレックスと日本人に対する歪んだ精神構造、突出した反日感情と言わざるを得ない。特亜三国はとにかく歴史を客観的に見る事を知らない迷惑な隣人たちである。