日本人は大東亜戦争に敗れたばかりか、日本人の心までも米国人や朝鮮人に奪われたまま、太平の世のお花畑で暮らしている。実際は教育もマスメディアも真実を伝えず、ネットの世界までも激しい言論弾圧を受けているのに。日本人よ、先人の苦労を知り、マトモな日本人として目を醒ませ!》


大東亜戦争に日本が敗戦した事により、それまでの35年間というもの本来朝鮮人でありながら日本国民の一員として共に連合国との戦いに臨んでいた朝鮮人たちは、日本の敗戦が濃厚になると掌を返すように日本人を敵愾視しだした。併し、健康で優秀な朝鮮人男性の多くは自身の希望で高い競争率を勝ち抜いて晴れて日本軍の軍人となり、本土出身の日本兵と心を一つにして共に戦った筈である。洪思翊という日本軍中将にまで上り詰めた人物も居り、立派な朝鮮人も少なからず居た。


併合して30年以上も経てば朝鮮人志願兵は生まれた時から日本人として育った根っからの日本人といってもおかしくはない。朝鮮半島に暮らす朝鮮人の中にも生まれた時から日本国民という者も大勢いた筈である。そうした社会環境に居ながら、敗戦間近で心細い思いをして居る日本人に唐突に見せつけた朝鮮人たちの豹変ぶりに、多くの日本人は驚愕し困惑した事だろう。


韓国人作家、金完燮氏の『親日派のための弁明』には、「昨日まで母と慕って育てて貰った養い親の女性を、彼女に育てられていた孤児たちが寄って集(たか)って輪姦した末に虐殺してしまう」という驚愕の事実が描き出されているが、〈人間にそんな事ができるものだろうか〉と信じたくはない心境で読破した記憶がある。


35年前の日韓併合は、平和裡に国際法に則って、そして何よりも絶対多数の朝鮮人たちの希望により達成されたものであった。当時は日本人の中にも朝鮮人の中にも反対意見は存在した。朝鮮人の反対者の多くは併合により特権を奪われる事を恐れた両班たちであったが、その両班の中にさえ朝鮮の為に良かれと信じて併合に賛成した者が数多く居た。


併し、史実は語る。ある記録によると、日本敗戦直後の朝鮮半島で虐殺された一般の日本人の数は17690名に達するという。一般の日本人という事は、軍人以外の「老人・病人・女性・子供・乳児」などである。併し、この数字は随分と少なめに見積もったものだと思う。嘗て北朝鮮が1柱につき400万円という遺骨ビジネスを日本政府に持ちかけてきた事があったが、その時の遺骨数は約21,600柱であった。遺骨として北朝鮮の地に形ばかりとはいえ埋葬されていると北朝鮮政府が確認できた数だけで21,600柱にのぼるのだ。


朝鮮半島で暮らしていた日本人と、朝鮮半島を引き揚げ帰路に選んだばかりに朝鮮人に虐殺された満州などからの引き揚げ者の多くは、〈女性は強姦され、男性は撲殺され、支那人の買い手がつかない子供や乳児は皆殺されてしまった〉という。南北合わせて朝鮮の地で果てた日本人の数は相当な数に達する筈である。朝鮮人たちは殺戮した遺体から金目のものを全て奪い去ったという。〈持ち物を奪い、衣服を剥ぎ、果ては金歯まで抜き去って、遺体だけ放置した〉というから、埋葬もされず無念のうちに野晒しで風化した日本人の数は類推するしかないが相当数居た事は確かである。


それでも北朝鮮には21,600柱が確認されているが、今の韓国には日本人の生活者や引き揚げ者の埋葬場所は一箇所も無い。〈韓国人はそういう無念の死を遂げ、埋葬もされないまま風化した日本人の遺骨の上を踏み荒らしながら反日を叫んでいる〉のである。韓国好きの日本人が居るのは勝手だが、日本人として、そういう無数の先人たちの無念に思いを致した事が一度でもあるのかと聞いてみたいものだ。支那人に赤ん坊の頃から育てられたという、所謂 在留邦人が沢山出てきて社会問題になった事がある。併し、〈韓国にそういう在留邦人が一人も生き残って居ない〉事も心に留め置いて欲しいものだ。


敗戦時に朝鮮に居た日本軍将兵は武装解除されてソ連軍に強制連行されていったが、民間の日本人は「米ソ協定締結後に送還する」と言い渡され、戦後3年間も朝鮮半島に抑留された。その3年間に、朝鮮人、米軍、ソ連軍に全財産を没収された日本人は、家もなく乞食同然に野辺を彷徨いながら朝鮮人の暴力や病気、飢餓、寒さなどで次々に死んでいった。ケモノ化した朝鮮人の虐殺からは逃れたものの、病気や飢餓で倒れた日本人も数多く居た。その遺体は、棺を買う金も火葬する金も無い為に菰(こも)や筵(むしろ)で巻かれて土葬された。土葬といっても土を盛る程度の粗末なものであっただろう。


ケモノ化して日本人に襲いかかった朝鮮人が、日本人の埋葬地を護ってくれた訳もない。韓国と比べて北朝鮮は殆んど開発が進まなかったから、日本人が日本人を埋葬した盛り土の場所が手付かずで残っているに過ぎない。


米軍が朝鮮に進駐してきたのは九月九日である。午後には総督府で降伏文書受諾の儀式が行なわれ、総督府正面門前の日本国旗を降し、これに代って星条旗が掲揚された。〈敗戦日からおよそ1箇月間続いた無政府状態〉は終わったが、日本軍が居なくなり新たに米軍の統治が始まると、朝鮮人側から日本の施設の接収運動が起こされた。学校、銀行、企業、工場、百貨店、商店、神社、寺院、病院から風呂屋に至るまで、また民間人の住宅も大きな邸宅は殆んど朝鮮人が接収した。


重要施設には米軍は MP を派遣し、英語で「米軍政補助者」の腕章を着けた日本人警察官に管理させたが、やがて日本人は次々と辞めさせられ、朝鮮人がそれに取って代わった。京城電気会社、朝鮮電業、南鮮放送施設、同盟通信、朝鮮書籍印刷住宅営団、食糧営団、重要物資営団、三陟(さんちょく)開発、鉱業振興会、朝鮮工業協会、朝鮮石炭、京城日報、東洋拓殖、朝鮮銀行、殖産銀行、等々は米軍の管理下に置かれた。


朝鮮からの日本人引き揚げの世話会の資金は米軍によって凍結され、昭和20126日に発令された法令33号によって、925日以後、日本国家および個人の財産は一切米軍政庁が取得すると宣言された。引き揚げ者の荷物は一人二個までと制限され、それを世話会に後で送らせるという事について、民政長官プレスコット大佐の指令書まで出ていたが、荷物が日本に届く事は無かった。何万個口もの日本人の荷物は全て開封され、〈米軍と朝鮮人によって山分けされた〉のである。〈朝鮮人は残虐なケモノであったが米軍は恥知らずな泥棒であった〉。こうして朝鮮半島に住み、また朝鮮半島を引き揚げルートに選んだ日本人は辛うじて生き残りはしたものの、手荷物以外の財産は全て失なった。


戦争は終わったのに、軍人でもない民間人が3年間も朝鮮半島に抑留され、大勢が殺され、或いは死ぬに任され、生き残っても財産は全て米軍と朝鮮人に巻きあげれられて、無一文での帰国に追い込まれたのである。一方で、日本で敗戦を迎えた朝鮮人は敗戦の3年後には祖国が独立したのに帰国もせず、「日本で革命を起こして共和国にする」などと叫んで共産主義運動に熱を上げていた。その共産主義運動を奨励したのが連合国軍最高司令官総司令部(GHQSCAP)である。


GHQSCAPは、長年日本で日本人として暮らしていた朝鮮人という存在を最大限に利用した。D・マッカーサーは日本の地を踏むと、「今日は日本人に奴隷とされていた朝鮮人たちの奴隷解放の日だ」と宣言し、奴隷でもなく普通の日本人として敗戦を迎えた朝鮮人たちを有頂天にさせた。白人が他国を統治する常套手段が「分割統治」という遣り口で、被統治者たちを互いに争わせて少数の白人が安全に多数を統治するのである。事大主義が染み付いた朝鮮人たちは、強いもの(GHQSCAP)に媚び諂(へつら)い、弱いもの(敗戦した日本人)には殊更横暴に振る舞った。


そうして生まれたのが、本来は日本国民であったのだから日本人と同じ敗戦国民である筈の在日朝鮮人たちが増長し切った挙げ句の果てに、自らを戦勝国民を僭称した「朝鮮進駐軍」である。在日朝鮮人たちは日本に長く暮らしていた為、日本の情報に精通しており、GHQSCAP が欲した「公職追放令」の名簿づくりに協力した。その見返りに朝鮮人たちは配給統制品であるタバコや缶詰を受け取ったり、米軍の横流し品を手に入れて、日本人相手の闇市やパチンコで大儲けをした。パチンコは現在でも在日を通して韓国や北朝鮮の有力な収入源である。


闇市を仕切りながら、朝鮮人の中でもタチの悪い奴は「朝鮮進駐軍」として街中を闊歩し、目があったと言っては因縁をつけて暴力を振るったり、若い女性を路地裏に引き摺り込んで輪姦したりと暴虐の限りを尽くした。5万人を超える「朝鮮進駐軍」は、日本各地で乱暴狼藉の限りを尽くした。朝鮮人の暴虐に堪り兼ねて止めに入って撲殺された日本人も居た。新聞沙汰になった事件数は書きあげていったらきりがないほど記録に残っているが、こうした在日韓国朝鮮人に都合が悪い情報は現在では悉く封印されている。『東京裁判史観』に毒された日本政府やマスメディアは昭和史の真実を語ろうとしない。


不条理にも在日は特別永住資格を与えられ、政界・財界・法曹界・教育界・マスメディアなど枢要な職業に通名で紛れ込んだり、形ばかりの帰化をして、日本人に成り済まし、日本を自分たちの都合の良い方向に誘導している。多くの日本国民が『東京裁判史観』の呪縛から自ら脱却し、昭和史の真実を白日の下に晒して、「歴史の正義」を堂々と語れる日が来るまで、心ある日本人は戦い続けなければならない。大切なこの日本国と、我々の子々孫々の為に。