朝鮮人は歴史から取り残されるべくして取り残された。「日韓併合」により外見は近代化したが内面は未だ原始人。彼等には近づかない方が身の為である


世界に冠たる中華帝国に間近で付き従いながら、なぜ朝鮮だけが全く発展しなかったのか。李氏朝鮮(1392年~1910年)は、日本で言うと室町時代から明治時代まで朝鮮半島を統治した王朝である。近代化を成し遂げ、欧米列強に伍していた大日本帝国との併合が成立した時の朝鮮は、およそ文明からは取り残された東洋の超後進国に成り下がっていた。


李氏朝鮮王朝(13921910年)第四代国王の世宗(セジョン、13971450年)は、モンゴル人が残していったパクパ文字を真似て、訓民正音(ハングルの古称)という文字体系を制定させ、『経国大典』の作成を命じるなど、朝鮮半島の重要な部分を成す文化に影響を残した。その一方で朝鮮社会の発展は想像を絶するほど長きに亘って著しく停滞し続けた。


今の韓国は史実を無視して「韓国半万年の歴史」などと益々誇大妄想に耽溺しているが、現存する朝鮮半島最古の歴史書は西暦1145年に完成した漢語による「三国史記」である。それ以前の朝鮮半島の歴史は空白である。檀君神話が創られたのは13世紀頃とされ、ハングルは15世紀に一応の制定は見たが、漢語を教養の柱とする両班たちには見向きもされず、庶民に普及する事もなく忘れ去られ埋没していたが、20世紀に日本人が発見して体系化し、「日韓併合」初期に朝鮮人に再教育して現在に至る。


実は、1876年の「日朝修好条規」締結の時、日本の学者が埋もれていたハングルを発見し、「こんな便利な表音文字があるのなら勿体無いから使ったらどうか」と提案し、実際に朝鮮で使われだした筈であるが、34年後の1910年の「日韓併合」の時にはまたもハングルは忘れ去られ、散逸し、埋もれ、忘れ去られていた。日本人は二度に亘って朝鮮人にハングルを教育した事になる。


朝鮮の基本的法体系については、初代太祖時代に鄭道伝が上程した『朝鮮経国典』を土台として、王朝最初の成文典『経済六典』が1397年に完成し、続く、太祖時代の『続六典』を踏まえ、世祖は「万世の法」としての「六典」の編纂を臣下に命じたとされる。朝鮮王朝の原点を成す法体系といわれる『経国大典』が完成し施行されるまで建国からほぼ一世紀もの時を要した。


19世紀末に日本国全体が素早く近代化に成功したのに対して、腐敗した王族と両班たちが支配する李氏朝鮮は、両班が庶民から搾取し、働きもせずにのうのうと時を無為に過ごしていた。国を治める立場の指導層が政争に明け暮れ、庶民の生活を顧みる事なく腐敗し、堕落した生活を続けた結果、とうとう1910年には大日本帝国に度々〈日韓併合を懇願〉する事になる。


李氏朝鮮の発展を阻害したのは、王族と両班たちの身勝手な果てしなき政争や救いようのない腐敗と、彼等に一顧だにされぬまま5世紀以上に亘って搾取され放置されてきた庶民の蒙昧さである。日韓併合時の朝鮮庶民は、激しい身分制度の下、最下層の奴隷が30%を占める異常な社会であった。両班による拷問は日常茶飯に行なわれ、女性は姓名さえ与えられず、もの同然の扱いを受け、一般庶民にいたっては一切の教育機会も与えられず、さながら動物的にただその日を生き長らえる事のみに汲々としていた。


そんな「棄民」とも呼べる存在の庶民が大多数を占めるに任せた両班たちが国家運営をしなければならない構造の朝鮮には、もはや自浄作用を期待しても無理であった。日本は教養を備えた下級武士たちが自己犠牲の精神で国に献身する事で世界的にも稀な無血革命とも言える「明治維新」を成し遂げ、いち早く西欧的先進文明を取り入れる事に成功した。日本の文明開化には武士たちの献身もさる事ながら、江戸時代に培われた一般庶民の高い識字率と教養が大きく寄与した。併し、朝鮮には日本のような、国に献身する「侍」も存在せず、寺子屋の普及による「教養ある庶民層」も居なかったから、自らの力で先進文明を取り入れ活用する事は不可能であった。


今の韓国は「日韓併合」を指して、二言目には「日帝の武力による人類史上稀に見る過酷な植民地搾取」などと日本を責めるが、歴史を調べれば韓国が言っている事は史実を逆さまに捏造している事は明白である。ところが日本政府・外務省・文科省は韓国政府との軋轢を避け、韓国の言うままに日本の中学校の歴史教科書に「日本は武力により朝鮮を植民地支配しました」などと史実には無い事を平気で書いて日本の子供たちに嘘の歴史教育しているのだから呆れる。日本の歴史教育の正常化は急務である。


朝鮮は建国の理念に「崇儒排仏」を置いた。儒教を重んじ仏教を排除したのである。「崇儒排仏」の発想は、前王朝である高麗の建国理念が仏教であった為に、易姓革命に倣い前王朝の権威を全否定する必要に迫られ、仏教を徹底的に排斥したものと思われる。廃仏毀釈運動は壮絶を極め、現在の日韓間に横たわる「仏像窃盗問題」はこの時期に日本に退避され護られ続けた仏像を、韓国人窃盗団が日本の寺から盗み出し、韓国の寺が推測に基づく所有権を主張して、韓国司法も韓国人の情を優先して外交問題に発展したものである。恐らく日本に渡って来なければ問題の仏像は朝鮮人の手により壊され現在は存在していなかっただろう。


本来高麗王朝は、儒教を軽んじていた訳ではなく、太祖王健は「仏教と儒教を互いに補完する存在」と見傚して儒教も重んじた。併し、歴代国王たちは仏教に偏重し、国政を顧みない者が続出した。高麗末には王権と癒着した仏教勢力を排除すべく朱子学派が台頭し、その力は高麗打倒の源となり、そのまま李氏朝鮮に受け継がれていった。


高麗は末期まで元(モンゴル)王朝の冊封国であり、元を高原に追いやった明王朝と高麗は対立関係にあった。北方からの敵の侵入に苦しんだ高麗の経験を鑑み、李氏朝鮮は明王朝との関係改善を重視し、1年に3回も朝貢を行なうなど積極的に明王朝に平伏した。


李氏朝鮮に限らず歴代の朝鮮半島の王朝は「農者天下之大本」として、産業としての農業を重視した。農業の研究が奨励され、幾つかの農業関連本が出版された他、田植え法の普及で農業技術を向上させ生産効率を上げようと務めた。工業は、農民が副業的に手工業を営む程度で殆んど奨励されなかった。これが李氏朝鮮に目も当てられないほどの技術の遅れを招いた。商業政策は農業が飽くまでも基本で流通網は全く発達しなかった為、近隣の市場での物々交換が主で、貨幣の流通を試みるも殆んど普及せずに終わった。


事大主義と小中華思想の蔓延は〈明国への冊封体制への過度な依存〉を齎らし、自国防衛をも明国に頼り、極端な事大主義の蔓延は高麗時代からあった「尚文軽武」を加速させた。


儒教ばかり勉強して武については何も知らない文官が軍のトップに就任した為、秀吉の朝鮮征伐の際には朝鮮の正規軍は、日本の武士集団の前に殆んど歯が立たなかった。また明が女真族の後金(後の清)に取って代わられた後も周辺国の中で朝鮮のみが、飽くまで明朝皇帝を推戴する姿勢を見せた為、これを不快に思った後金の皇太極は自ら10万の兵を率いて李氏朝鮮に侵攻した。

 

李氏朝鮮の第16代国王仁祖(インジョ)は南漢山城に篭城したが、翌1637年降伏して皇太極に対し三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)による清皇帝を公認する誓いをさせられるという服従の儀式が行なわれた。以降、軍事・経済的に清に依存しつつも「夷狄(野蛮人)に学ぶのは恥ずかしい」という意識が広く蔓延し、小中華主義は西洋のみならず、清の優れた文物の導入をも阻害した。朝鮮人の狭量なプライドが朝鮮の発展を阻害したのである。


教育施設としては、各郷村には両班向けの私立の書堂が設立された。日本の寺子屋では庶民が自発的に読み、書き、そろばんを学んだのに対し、朝鮮では庶民向けの寺子屋のようなものは皆無であった。庶民は学問に全く興味を示さず、両班向けの書堂では科挙の試験対策の為の英才教育が施された。


科挙に合格する為には、幼少期から十数年も英才教育されなくてはならず、費用も到底庶民に払える額では無かった。教育が特権階級だけのものだった為、一般大衆の意識や知識は古代人なみの無知蒙昧なままに取り残された。ここが日本との決定的な違いであった。李朝末期に改革派が近代化に乗り出すも庶民のレベルは古代人の域から全く進歩しておらず、土着信仰のような極楽浄土の実現を目指して反乱を起こし改革派に敵対する有様であった。


特権階級の官僚や学者たちは集えば争い分裂し、何の成果も上げられぬまま庶民を放置し、国は荒廃するに任せられた。こうして李氏朝鮮は国家の体を成さぬまま5世紀以上も事実上眠り続け、国民は原始人さながらの暮らしを続けたのだから、「日韓併合」でいきなり日本人に近代教育を受けても5世紀のギャップを埋め切れはしなかった。「日韓併合」が敗戦により終了すると朝鮮人の外見は近代化されはしたが、精神性はまた原始人に戻ってしまった。敗戦後の日本人へのケモノ的蛮行の数々がそれを証明している。


現代の韓国は、こういった恥辱に満ちた自らの歴史を小中華主義の狭量なプライドゆえ受け容れる事ができずに、有ろう事か「専門の歴史贋作集団」を政府部内に置き、日夜華麗なる歴史捏造に励んでいる。韓国人は外見は近代人だが内面は未だ原始人のままなのである。そういう彼等とは距離を置き、できるだけ関わりにならないに限る。関われば日本が傷つくだけである。