シャルル・ダレの『朝鮮事情』に見る李氏朝鮮。韓国人は真実の歴史を学び直すべきだが、それができないのが韓国人の韓国人たる所以であろう。外国人から見た日韓併合前の李氏朝鮮の実態を韓国人は知るべきだ。朝鮮民族が日本によって地獄から救われた史実を素直に受けめられず、反日を続ける姿には呆れると当時に哀れさを感じる


フランス人宣教師シャルル・ダレ (Charles Dallet, 1829~1878) は、1866年にソウルで処刑されたマリ・ニコル・アントン・ダヴリュイらが収集した資料を基に『朝鮮教会史』を書き、1874年に出版した。カトリック教会は、1831年に朝鮮教区を新設した際、北京を根拠地とするパリ外邦伝教会に布教を委託した。1863年に即位した高宗の父である李氏朝鮮末期の王、興宣大院君は、断固としてカトリック教を排除し、1866年に全国で8000余名を逮捕、約400名に有罪を宣告した。

 

シャルル・ダレの『朝鮮事情』は李氏朝鮮の後進性、政治的腐敗、社会的混乱、文化的貧困等を完膚なきまでに暴き、欧米に於ける朝鮮の後進的腐敗イメージを確定した。後のイザベラ・バードやウィリアム・グリフィスに与えた影響も大きい。実際、李氏朝鮮の絶望的な状況は、支那や日本との比較に於いて際立っていた。日本が支那とロシアを退ける事など予想もできなかった時代、李氏朝鮮は将来ロシアに併合されると誰もが予想していた。


興宣大院君がカトリックに排除に躍起になっていた頃、その朝鮮や支那の停滞をよそに、我が日本の先人たちは日本を西洋人(白人)の毒牙から護る為に、非常に賢明に、周到に、そして血の滲むような努力を続け、下級武士たちが発揮した自己犠牲の精神の下、日本は西欧列強に伍する近代国家に変容したのである。これこそ日本人が誇りに思って良い史実であるが、日本政府・文科省は日本人が自国に誇りを持つ事を嫌い、『明治維新』の偉大さを国民に積極的に教育しようとしない。悪しき『東京裁判史観』の呪縛から逃れられないでいるからだ。以下に記述するように朝鮮の遅れに遅れた後進性と惨めな冊封国家であった史実を知って如何に日本の先人たちが賢明であったかを実感していただきたい。


『朝鮮事情』はこう記している。『この山国では、道路と運輸機関とが実に不足し、それが大規模な耕作を妨げている。人々は各自の家の周囲とか手近な所を耕作するだけだ。また、大部落は殆んど無く、田舎の人々は三、四軒、多くて精々十二、三軒ずつ固まって散在している。年間の収穫は住民の需要を辛うじて満たす程度であり、然も朝鮮では飢饉が頻繁にみられる。』

日本が朝鮮半島を併合し、灌漑工事をして近代的な稲作を始めるまでは、朝鮮各地では飢饉が頻繁に起きていた。日本の指導により主食であるコメの増産に成功し、朝鮮人は初めて飢饉から解放されたのである。


1637年に締結された条約は、清に対する朝鮮の実際上の隷属条件を加重する事はなかったが、形式的には、これまでより一層屈辱的な従属関係のものとなった。朝鮮国王は清国皇帝に対して、単に叙任権を認めるばかりでなく、身分上の直接の権限、則ち主従関係まで承認を受けなければならなくなった。』


『朝鮮事情』に書かれた1637年とは、「丙子胡乱(へいしこらん)」の事である。日本では天草四郎で有名な「島原の乱」が起きた年である。この前年から清が李氏朝鮮を侵略し制圧した。朝鮮を示す〈胡〉の字は、漢族が北部や西部の異民族への蔑称として用いていたものである。

 

この時代支那全土を支配していた「明」が衰えを見せ、それに変わり「後金」が台頭してきた。1636年、後金の皇太極(太宗)が皇帝に即位し、国号を「清」と改める。併し、周辺国の中で朝鮮のみが皇太極の皇帝即位を認めず、飽くまで明朝皇帝を推戴する姿勢を見せた為、これを不快に思った皇太極は自ら10万の兵を率いて李氏朝鮮に侵攻した。

 

仁祖(インジョ、李氏朝鮮の第16代国王)は南漢山城に篭城したが、翌1637年降伏して三田渡で皇太極に対し三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)による清皇帝を公認する誓いをさせられるという服従の儀式が行なわれた。*三跪九叩頭の礼とは、臣下が皇帝に対面する時の儀式で、3度ひざまずき、そのたびに3回ずつ頭を床につけて拝礼するもので屈辱的な臣下の礼の事。


『清軍は50万の朝鮮人捕虜を強制連行し、当時の盛京(瀋陽)の奴隷市場で売買した。朝鮮人奴隷は清が他国とした戦争に兵隊として動員され、農業や工事の労動力とされた。捕虜が暴行される事は常で、婦女子たちは清軍の気の赴くままにレイプされた。この戦争によって李氏朝鮮が受けた損害は計り知れない。』


こういう歴史を識ってみると素朴な疑問が湧いてくる。朝鮮儒教の教えでは敵対者の罪は「千歳に及ぶ」というが、李氏朝鮮や韓国が支那に「50万人強制連行や婦女子のレイプ」に関して国民的抗議活動をしたとは絶えて聞いた事がない。朴槿恵氏の「1,000年の恨み」なる朝鮮儒教的迷言は矢張り日本だけを特別視したものなのだろう。つくづく鬱陶しい国である。


『朝鮮事情』では『朝鮮の王宮は、パリの少しでも余裕ある年金生活者でも住むのを嫌がるようなつまらない建物である。王宮は、女と宦官で充ちている。』フランスの豪華な王宮と比べるまでもなく、朝鮮の王宮は見窄(みすぼ)らしいという事だ。また、『官吏の地位は公然と売買され、それを買った人は、当然その費用を取り戻そうと努め、その為には体裁を構おうとさえしない。上は道知事から最も下級の小役人に至るまで、徴税や訴訟やその他の全ての機会を利用して、それぞれの官吏は金を稼ぐ。国王の御使すらも、極度の破廉恥さでその特権を濫用している。』と続く。


見窄らしい王宮で役人たちは腐敗しきっていたのである。これでは国が発展する訳がない。李氏朝鮮はこの状態で約500年以上もの長期間に亘って、何の文化文明的発展もなく停滞していたのだから驚きである。


日本にとっては、開国後の最大の問題は隣国である清国とその属国であった朝鮮との関係にあった。東南アジアを次々に植民地化してきた欧米諸国は北上を続け、加えて当時、徐々に勢力を伸ばしてきていたロシアが、北海道と朝鮮半島のすぐ北の樺太、ウラジオストクまで南下してきていた為、日本列島、清、朝鮮半島は南北から挟み撃ちされるような状況にあった。そのような状況を憂慮した日本は、先ず、朝鮮半島をロシアの手から護らなければ国家の存続は有り得ないと考え、朝鮮を日本のような近代国家として自立させ、同盟を結ぶ事について協議した。


その結果、明治維新直後の日本(明治政府)は、李氏朝鮮と国交を結び朝鮮を近代化する手助けを提案するべく、天皇の勅使を朝鮮政府に送った。併し、日本を小国として侮り、見下していた朝鮮は、西洋化し、近代化した日本を侮辱するかたちでこれをあっさり拒否した。何としても朝鮮には近代化した独立国としてロシアの南進に持ち堪えても貰いたい明治政府は、朝鮮の無為無策をこれ以上放置し続ける訳にはいかなくなった。併し、その朝鮮を長年属国としていた清国がこれを黙認する筈もなく、日本との間で「日清戦争」が勃発した。


日本は開国して明治政府となった当初、支那、朝鮮と同盟を結ぶ事によってアジアの団結を図り、欧米諸国から支那、朝鮮と自国の領土を護る事が理想だと考えていた。併し、歴史的に支那と朝鮮が日本を小国として侮り見下しているという現実を前に、その理想は挫折した。支那と朝鮮は「欧米の植民地化」という危機を日本ほど深刻に受け止めていなかったのである。切迫した国際情勢が見えないまま、支那人や韓国人は「反日感情」を持ち続けた。「特亜の反日」は日本の敗戦後に始まったのではなく、この時代から既に日本を蔑視し、敵視さえしていたのである。


日本は「アジア」という小さな括りに捉われている場合ではない事を悟る。アジアの団結力に頼るのではなく、日本一国で欧米諸国と対等に肩を並べ、日本の国土を欧米の侵略から護ろうという、「脱亜入欧」の考え方にシフトしたのである。日清戦争は、日本の「脱亜入欧」の成否がかかった国家の命運を賭した一戦であった。そして日本は勝利し、清国から正式に遼東半島、台湾、澎湖諸島を得、朝鮮を清国から正式に独立させ、日本の影響下に置きながらも「大韓帝国」として自立させたのである。


この以外に時代に取り残され、遅れに遅れて国民たちが苦しむ李氏朝鮮を立て直す方法は無かった。後に大韓帝国からの再三に亘る懇願により「日韓併合」を日本側が受けける事になるのだが、現在の韓国人には、謙虚に、冷静に、歴史の真相を考えて貰いたいものだ。有色人種を同じ人間として扱わない、それこそ過酷な植民地政策を進める欧米列強やロシアという白人国家が目前に迫ってくる中、500年以上に亘って何の進歩もなく未開生活を送っていた朝鮮は日本が行動しなければどうなっていただろうか? それこそ日本による〈慈愛に満ちた併合〉ではなく、過酷な植民地搾取に苦しむ事になっただろう。白人の植民地では現地人の為に学校をつくった例などひとつもない。


歴史を謙虚に学び直しても、それでも「反日感情」を抑えられないというのなら、それまでである。日本としては感謝を強いるつもりはない。好きにすれば良い。

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