《 戦勝国である米国の洗脳工作により、現代日本国民の多くは、自分たちの祖先は「悪い戦争をして負けた」と思い込まされている。8月15日は我が国の「敗戦日」である。「終戦記念日」などというまやかしはやめよう 》


第2次世界大戦は、4000万人の死者と3兆ドルの戦費が費やされた戦争といわれている。併し、日本にとっては飽くまでも、あの戦争は「大東亜戦争」である。帝国議会が「大東亜戦争」という呼称を正式に決定したのだから。敗戦後に日本を統治したGHQ/SCAPに「太平洋戦争」という呼び方を始め、数々の嘘を史実とするように強要された。日米の戦死者は、米国約10万人に対して日本は約310万人である。犠牲になった人命を比べれば日本の惨敗であった。日本が失なった人命は余りにも多過ぎた。そして占領統治中のGHQ/SCAPの悪意ある巧みな洗脳工作により、日本人は失なった尊い人命に加えて更に例えようもなく大きなものを失なった。


サンフランシスコ講和条約締結により、1952年4月28日を以って日本は国際社会に晴れて独立国としての復帰を許された。独立国に戻ったのだから日本は占領統治中に禁じられた事、歪められた史実などを正しく理解し直す必要があった。併し、戦後の我が国の指導層は「大東亜戦争」を自ら総括する事なく、だらだらとGHQ/SCAPの受け売りを続けて、国民に真実を教育し直す努力を怠ってきた。勿論、苦労して思い通りに洗脳を遂げた米国が「日本国民の洗脳からの目醒め」を簡単に許す筈もなく、日本政府が国民に真実を告げる事には強硬な圧力をかけてきていたであろう事は想像に難くない。


併し、戦後72年間という長きに亘って、米国の強圧に屈し続けたのは、情けないといえば情けない。米国の不興を買い、或いは弱者となったとはいえ日本人としての誇りを持って大国米国に対して喧嘩腰になってでも、日本は日本人だけで「大東亜戦争」を総括すべきであった。現在取り沙汰されている「改憲問題」などは、戦後の日本に少しでも勇気を奮い起こした気概ある指導者が居たなら、今更問題になる話ではない。


だがここで語りたいのは、「憲法問題」ではなく「大東亜戦争」が「侵略戦争」であったが否かである。私は断じて現在語られるような「侵略戦争」などではなく、追い詰められた末の「防衛戦争」であったと信じる。白人帝国主義国家の既得権益拡大にとって、目障りな有色人種の新参者、大日本帝国だけに対する排斥行動への抵抗であった。


帝国主義の善し悪しを現在の価値観で裁くのはやめよう。当時はそれが正義であったし、白人・支那人の帝国主義と、日本人の帝国主義は別物であった。アジアに於いては自力で独立国の地位を護ったのは唯一国、日本であった。シャムは国々のバランスの中で侵略の憂き目に遭わず、支那は広大な国土を惜しげも無く列強に割譲して、植民地化を免れていたとはいえ、ただ広いだけの不毛の地であった。


そういう惨めな境遇にありながらも、支那はアジア諸国とは一線を画し、常に白人側に着いた特異な国であった。アジアに在りながら支那にとってアジアとは、統治すれども仲間には有らずという下賤な地域であったのだ。況してや日本を認めるなど論外であったのだろう。支那はアジアと共に戦った事は一度もないし、これからも中華人民共和国がアジアと共に寄り添う事はない。


当時、日本に最初に敵愾心を向けたのは、白人国家の中で植民地分捕り合戦に出遅れていた米国であった。西へ西へと向かう「殲滅フロンティア」の行き着く先に日本が在った。


日露戦争後のポーツマス条約(1904年)により、日本は満州の長春から旅順までの鉄道権益を得た。 日本は南満洲鉄道株式会社(満鉄)を設立する。満鉄は鉄鉱、製鉄、電力、港湾、倉庫など様々な関連事業を持ち、日本の軍事、経済の要となった。この満鉄の権益を、米国の鉄道王ハリマンが半分寄越せと言ってきた。


日露戦争で甚大な犠牲を払って獲得した権益である。これを外交官 小村寿太郎が突っぱねた。恐らくこれが強欲な白人国家 米国の闘争心に火を付けた。…と言っても例えこの横槍を飲んだとしても、次の要求が矢継ぎ早にきたのは目に見えていた。日露戦争以降、日本は米国の「殲滅フロンティア精神」にとっては何れ潰すべき、ただの邪魔者であったのだから。


米国は、来るべき大日本帝国との戦争へ対処する為の米海軍の戦争計画である「オレンジ計画」(War Plan Orange)を策定していた。戦間期(1920年代から1930年代)に於いて米国が立案した、この「オレンジ計画」は1919年(大正8年)に非公式に立案され、1924年(大正13年)初頭に陸海軍合同会議(Joint Army and Navy Board)で採用されている。カラーコード戦争計画の一つであり、これ自体は交戦可能性のある全ての国を網羅してそれぞれ色分けされ計画されたもので、日本だけを特別敵視していた訳ではないとされている。


併し、他のカラー計画はともかく、日本を対象としたこの「オレンジ計画」が立案された年に注目したい。この1919年というのはパリ講和会議が開催された年であり、大日本帝国はパリ講和会議の国際連盟委員会に於いて人類史上初の「人種的差別撤廃提案」(Racial Equality Proposal)を主張した。これに対しては大英帝国の自治領であったオーストラリアや米合衆国上院が強硬に反対し、ウッドロウ・ウィルソン米合衆国大統領の議長裁定で否決された。


有色人種である日本人が白人列強側には予想もしなかった「人種差別撤廃」を訴えたのである。黒人奴隷制度を持ち、これから植民地搾取で国力をつけようと目論んでいた米国や、数百年に及ぶ植民地既得権を持つ欧州列強にとっては受け容れ難い事であった。日本以外の全ての参加メンバーであった白人たちには「人種差別撤廃」など論外であり、神が与え賜う自由と平等、博愛の精神は、白人の仲間内でのみ有効であった。


人種差別を当然視していた白人の帝国主義と、元々有色人種である日本人の帝国主義は全くの別物であった。英国は植民地インドに民族主義的で優秀な若者が育つ事を許さなかった。一説には優秀な若者は両手首を切断され、学業を禁止されたという。豪州では日曜日ともなるとアボリジニの女性たちがマスケット銃で岩山に追い立てられ、崖から墜落死する様を眺めながらフランス人たちが笑いながら酒を酌み交わしたという。白人にとって有色人種は人間ではなかった。(武田邦彦氏)


インドでは現地の有力者の姉弟と共に、稀に主人に好まれた奴隷が英本国への留学が認められる事もあり、英国の価値観を持った秀才に育てられた。若き日のマハトマ・ガンジーは英国留学で仏語を習い、バイオリンや社交ダンスを嗜んだという。日本が援助した本来のインド建国の父、チャンドラ・ボースより、ガンジーが持て囃されるのは、戦勝国の歴史にのみ陽が当たる好例であろう。


同じ帝国主義と呼ばれても、日本は将来的には対等貿易で互いに繁栄する関係を夢見て植民地経営を行ない、白人の植民地は徹底的搾取を旨とした。この日本の基本思想が「八紘一宇」「五族共和」であった。アジアを喰いものとしか考えない白人・支那人と、アジアと共に栄える事を夢見る日本との衝突は歴史の必然であった。


白人たちはアジアを我が物顔に侵略し、支那人は白人に見下されながらも白人側に付いて日本に敵対した。日本こそが唯一アジアと共に歩もうとした善良なる帝国主義国家であった。それが白人たちには癇に障った。凡ゆる不利益を押し付け、日本排斥に動いた。戦争に誘(おび)き出し、勝利が確定して尚、2種類の原子爆弾を〈実験と見せしめ〉の為に投下した。


米国にとっては広島、長崎への原爆投下は「生体実験」であった。米国が急派した医師・看護婦は「治療行為は一切せず」、ひたすら観察に徹したという。あの時の米国人たちは人間ではなかった。当然、敗戦国日本を裁く戦時臨時裁判も平等であるべき人間対象の体を成していなかった。西部開拓時代からの伝統的なリンチ(私刑)の集大成であった。インドのパール判事ただひとりを除いて、あのリンチを止めに入る保安官役は居なかった。


8月15日は、平和が齎された「終戦」記念日ではない。誇り高く、慈愛に満ちたアジアの盟主、日本が敗戦した悲しむべき日である。心に刻みつけられたこの日に、英霊に頭を垂れる事を、他国に非難されているうちは、戦争は終わったとは言えない。従って単なる「終戦」記念日ではない。追い詰められて止むに止まれず戦闘の火蓋を切った我が国の「敗戦」を記念する日である。現代日本人はそれとの自覚もないままに敗者の辱めを未だに受け続けているのだから。