今の日本人に明治の元勲の覚悟を理解できるか。日清・日露の戦争を見直せば、自ずと日本人の誇りが蘇(よみがえ)ってくる。どんな困難に直面しても日本人には諦めてはいけない事がある


日露戦争とは、1904年(明治37年)28 1905年(明治38年)95日に、大日本帝國とロシア帝國との間で、朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で講話交渉に臨み、190595日に締結されたポーツマス条約により講和した。


日本はなぜ勝ち目がないと思われた白人の強豪ロシア帝國と戦う事になったのか。日露戦争の原因を辿って行くと、1895417日の日清戦争後の下関条約(日清講和条約)に行き着く。


この条約により日本は、清国より遼東半島、台湾、澎湖(ほうこ)諸島など付属諸 島嶼(とうしょ)の主権ならびに当該地方にある城塁、兵器製造所および官有物の全てを獲得した。(下関条約で日本が最も拘(こだわ)ったのは「朝鮮の清国からの完全なる独立」であった)


李氏朝鮮は日本の努力の甲斐あって清国の冊封体制から離脱し、大韓帝国として独立した。併し、不誠実にも、満洲を勢力下においたロシアに擦り寄り、ロシアは朝鮮半島の利権を手がかりに南下政策を加速させる勢いを見せた。強い国に擦り寄るのは朝鮮民族の習性なのであろう。


ロシアは高宗をロシア大使館に約1年に亘って住まわせ、ロシア大使館から大韓帝国を執政させた。ロシアは高宗を通じて売り払われた鉱山採掘権や森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増していった。大韓帝国には日本が期待した「独立の気概など全く無かった」のである。宗主国を清国に変わってロシア帝國に変えようとしただけであった。


日本が清国と戦ったのは朝鮮に独立国となって貰って、南下政策を窺うロシア帝國の脅威に日本と共に対峙して欲しかったからである。そして、清国の広大な土地を狙っていた英国、ドイツ、ロシア、フランス、米国、イタリアなどは、日本の勝利による清国での権益拡大を快く思わなかった。特に南下政策をとっていたロシアは、日本に遼東半島をとられた事に激しい不快感を顕(あらわ)にした。


1895年(明治28年)423日に、フランス、ドイツ、ロシアの三国が日本に対して所謂「三国干渉」を勧告してきた。それは日本と清国の間で結ばれた「下関条約」に基づき日本に割譲された遼東半島を清国に返還する事を求める内容だった。当時の日本には、三つの強豪国と同時に戦う国力は無く、理不尽な要求を撥ね付ける事はできず、不承不承ながら受け容れざるを得なかった。


ロシアには極東進出の為に不凍港が必要であり、南下政策で満州に於ける権益拡大を図った。ロシアは遼東半島を日本に奪われる事で、南満州の海への出口を失う事を恐れ、日本の満州進出阻止を目論んだ。ロシアは、この三国干渉により、1895年、東アジアに於ける第2の不凍港となる旅順租借地を獲得した。


日本に敗れた清国は、欧米列強に足下を見られ、次々と領土を租借される事となる。この状態の清で義和団といわれる宗教団体が立ち上がった。「清国から外国の勢力を追い払おう」という運動を始めたのだ(義和団事件)。1900年には清の実質的指導者であった西太后も正式に義和団を支持する事と決め関係各国に宣戦布告をした。


これに対し、日露を含む8箇国は清国に共同出兵し瞬く間に鎮圧。結局、清はこれまでより更に過酷な北京議定書を受け容れる羽目になり、清国の半植民地化は更に加速化した。他国が兵を引き揚げる中、一国だけ兵を増強する国があった。ロシアである。


日本にとって幸いな事に、このロシアの勢力拡大を嫌っていた国があった。当時、世界最強と謳われた大英帝國である。英国も清に多くの租借地を持っており、その権益がロシアに侵されるのを嫌っていた。ロシアの南下を恐れる日本と意を同じくした英国との間で「日英同盟」が結ばれた事は日本にとって幸運であった。


併し、この頼もしい同盟国も、後に英国の首相となるW・チャーチルにより米国のF・ルーズベルト大統領との間で、日本による〈真珠湾攻撃の四箇月前〉にニューファンドランド島沖合の船上で「日本に開戦させた後は日本を徹底的に打ちのめして、二度と再び白人国家に歯向かわないように完全に武装解除してしまおう」との密約を交わす事になる。


英国の名宰相と謳われたヘンリー・JT・パーマストンは以下の名言を遺しているが、正に英国は日本に対してこの言葉を実践した事になる。

「我々に永遠の同盟は無く、永遠の敵も居ない。ただ永遠の国益あるのみである」

この言葉通り、英国は自国の国益の為に「日英同盟」を一時的に結んだのであり、日本が英国の国益に反すると判断したから「日英同盟」は簡単に切り捨てられた。現代の「日米同盟」も米国の国益に合致しなくなれば簡単に打ち切られると、日本人は肝に銘じるべきである。


話が逸れたが、「日英同盟」を知ったロシアは、満州からの段階的撤兵を約束するも、僅かに一回撤兵して見せただけで、事実上、国際間の約束を反故にして満州に居座り、更なる権益拡大を窺った。このロシアの行動に日本の危機感は、いやが上にも高まった。


遼東半島の軍事基地化を見て、強い危機感を持った日本は、遂に1904年(明治37年)、ロシアに宣戦布告をする。日本は三国干渉で手放した遼東半島の一部である旅順に軍艦を差し向けるが、軍事基地化した旅順攻略は予想外の困難を極め、乃木希典率いる陸軍による203高地への攻撃に切り換える。


乃木は「陸軍の頭脳」といわれる児玉源太郎の力を借り、何とか203高地を占領。作戦通り、203高地の頂上からの砲撃によりロシア艦隊に壊滅的損害を与える事に成功する。併し、この旅順攻略で日本軍は6万人もの戦死者を出してしまう。


日本の10倍もの国力があるロシア相手の戦争では、「初戦で大勝し、戦争を長引かせずに早期講和に持ち込む」、これが日本の作戦であった。旅順攻略は何とか成功したものの、ロシアにはまだ、最強艦隊といわれるバルチック艦隊があった。1904年、1015日。遂に、そのバルチック艦隊が動き出した。ロシアの勝利を疑う者は居なかった。


バルチック艦隊に対しては、同盟国英国の側面サポートが効果的にダメージを与えた。各国に圧力をかけ、バルチック艦隊の入港を拒んだり、石炭の積み込みを不自由にさせたりして航行を妨げてくれたのだ。その結果、バルチック艦隊が日本海に辿り着くまでに7箇月もかかってしまった。


疲労困憊状態で日本海に辿り着いた世界最強のバルチック艦隊を待ち受けていたのが、東郷平八郎率いる我が連合艦隊である。7箇月もの間、訓練に訓練を重ねた精鋭たちであった。


精度の上がった砲撃と、後に世界三大提督のひとりに挙げられる東郷平八郎、また彼の右腕、戦略家の秋山真之(さねゆき)らの周到な作戦と、大日本帝國海軍技師 下瀬雅允が実用化した「下瀬(しもせ)火薬」の絶大な効果により、日本は世界最強艦隊を相手に一方的な勝利をおさめた。併し、日本にはこれ以上、戦争を継続する資金的余力は無かった。


日本は初戦で圧勝し、早い段階で講和条約を結んでしまおうという作戦を実行に移した。伊藤博文は開戦前から、米国大統領セオドア・ルーズベルトと親交のある金子堅太郎を米国に派遣し、世論を日本に味方するよう工作すると共に、機を見て米国大統領に仲介に入って講和条約の締結を勧めて貰うよう約束を取り付けていた。


併し、心の内で日本の完勝と国際的発言力の向上を快く思わなかったセオドア・ルーズベルト米大統領は、日本にロシアからの賠償金を取る事を認めなかった。当時の戦争では戦勝国は敗戦国の領土と多額の戦時賠償金を受け取る事は常識であったが、日本は多大な損害を出し、国費を戦費として使い果たしたが、戦時賠償金はびた一文受け取る事ができなかった。多額の借金を背負う事になる。


日本は1905年に日露戦争に勝利すると、翌1906年から英国の銀行団とユダヤ人銀行家ヤコブ・シフに戦費の借金返済をし始めた。そして何と82年の歳月を費やして漸く1986年に日露戦争の戦費として借入した資金を誠実に完済した。何という律儀な国であろう。平気で借金を踏み倒し、感謝の言葉もなく、不満まで漏らす隣国を見るにつけ、我が日本の誠実さには日本人として誇りを感じざるを得ない。


日露戦争の開戦に踏み切った明治の元勲たちには、今の日本の指導層が失なってしまった、「緻密な計画・外国への情報工作・勝機を見出す眼力・機を見て勝負に出る勇気・開戦より困難な戦争終結の事前工作」そして「最後まで戦い抜く覚悟」があった。伊藤博文は「例え日本軍が全滅しても、私は地位も名誉も投げ打って、一兵卒として銃を取る」という言葉を遺している。今の日本国民と安倍政権に、そのような気概があるだろうか? 残念ながら「ある」とはとても思えない。


日本人の一部には、まだまだ捨てたものではない気概を持つ者が居る一方で、殆んどの日本人は崇高なる精神性を、敗戦後のGHQSCAPの策謀により、ずたずたに破壊されてしまった。GHQSCAPが去った後の65年間、日本政府も、日本国民の多くも、臆病者であり偽善者であり続けた。臆病と偽善は、既に日本の国民性として深く根をおろしているように思える。


明治・大正・昭和初期の、崇高な日本人に立ち戻るのは、もはや不可能である。GHQSCAPが仕込んでいった「在日韓国朝鮮人」は未だ50万人ほどが日本に不当に居座り続けているが、日本政府は「在日」に日本で暮らす法的権利を与えてしまった。「在日たち」は毎年日本に帰化している。崇高なる日本人の血はGHQSCAPの思惑通り、既に穢されてしまっている。


併し、元通りの日本人に戻る事はもはや不可能であるが、だからと言って日本人が朝鮮人のように下賎な民族に成り下がってしまう風潮を看過する必要はない。未だ残る数少ない真正 日本人もいずれは立ち上がると期待したい。今居る多くの臆病者・偽善者の中にも日本人の血が流れている事に一縷の望みをかけて、日本人は本来の日本人に少しでも立ち戻る努力をしてみる価値はある。それを実現する為の最大の敵は日本国内に居る。彼等は本来なら現在の日本に居る筈のない在日韓国朝鮮人・反日帰化人・背乗り朝鮮人・反日的左翼劣化日本人である。米国政府の日本弱体化政策は戦後72年を経過した今も続いている。


私は、今後20~30年の間に日本国の命運は決すると思う。昭和天皇に関するこんな逸話がある。『大東亜戦争敗戦後に、米内(よない)光政海軍大臣が「日本民族は優秀だから50年経てば必ず蘇る」と上奏したところ、昭和天皇は「朕はそうは思わない。300年はかかるだろう」と言い切られたという。』 時間の歩みは当時の予想を遥かに上回る速度で進んでいる。


昭和天皇が仰せられた300年というお言葉に甘えていてはいられない。敗戦後100年を経て息を吹き返せないようでは、大和民族は事実上消滅したと断じざるを得ない。〈東アジアに於ける米中の軍事力の格差〉は、米国のキッシンジャー氏の側近の言葉によれば7年前に並んでしまい、もはや米中戦争はできなくなったという。最初からあてにはならなかった日米安保は日本を絶対に護れないし、そもそも米国には日本を護る気もない。


これからの一日一日を、真正 日本人は国内外の特亜三国人の反日宣伝工作と戦い続ける覚悟で、心を強く持って生きていかなければならない。一日も早く日本人としての誇りを取り戻すのだ。それは失なわれた明治の元勲の強靭な心を取り戻す事と同義である。これから生まれてくる多くの日本人…我が子孫の為に諦めてはいけない事である。