並み居る主要国首脳が韓国平昌冬季五輪の開会式出席を見送るなかで、主要国では日本だけが韓国の顔を立てる、「安倍首相の開会式への出席」という不可解な決断を明確にした。安倍首相ご本人の説明によれば「『日韓慰安婦合意』の徹底を直接、文在寅韓国大統領に伝える」為に出席を決意したという。「不可逆的」なる聞き慣れないが重い言葉で国同士が約束した事案を、韓国側が覆そうとの動きを見せたからと言って、既に約束した一方の当事者である日本側から、わざわざ出向いて行って念押しするというのも変な話である。実際のところは、自身が出席しないと既に明言したトランプ米大統領側から、「対北朝鮮で連携を取らせざるを得ない日韓の両首脳には決定的な反駁要因をつくるのは避けて欲しいと要請された」というのが安倍首相の決断要因だろう。要は日本は米国に命令されて「行くべきではない」平昌五輪の開会式に出席するのである。

70年以上も昔に負けた米国の支配下に、未だに日本が「安住」している証しである。亡国憲法を平和憲法と盲信してきた愚民がつくりあげた情けない日本の実情である。仮に主要国のトップが軒並み欠席する韓国の晴れ舞台に安倍首相が出席してあげたとしても、韓国人という奴は微塵も感謝などしない。そもそも「恩義を感じる」という概念を理解できない民族である。日本は100年以上も朝鮮半島と途中から建国された韓国に一方的に常軌を逸したほどに尽くしてきたが、朝鮮民族からの感謝の言動は皆無で、寧ろ、激しい憎悪感情を常に向けられてきた。朝鮮民族の日本への筋違いな怨恨感情は未来永劫不変である。「恩知らずな民族」であると日本人は重々分かっている筈であるのに為政者はいつもこういう決断をする。この安倍首相の誤った決断は、確実に見当違いのサインを朝鮮民族に送る事になる。韓国人による日本人への怨恨と甘えを日本は許した事になり、国際的圧力を加えられている北朝鮮は日本を包囲網の弱点と再確認するだろう。そして、在日朝鮮人たちは益々増長するだろう。

北朝鮮への国際的圧力の必要性は五輪期間中も生きているというのに、愚かな文在寅は自国開催の冬季五輪への北朝鮮チーム派遣にかかる費用を丸抱えしている。安倍首相の開会式出席は国際的圧力の団結破りである。舐められて当然。日本は舐められるべくして舐められ続ける。「政治とスポーツは別である」との現代人がつくった理想を日本人は信じているが、歴史的に「国際スポーツ=国同士の威信をかけた戦い」から政治的要素を切り離す事は不可能である。だいいち国際スポーツの政治利用は韓国のお家芸ではないか。そもそもオリンピックの大元である古代ギリシャの競技は、死を賭けた残酷なもので、時として国々の威信を賭けて行なわれた代理戦争であった。当時の競技は常に残虐なもので、古代ギリシャ人たちの欲望の捌け口であった。スポーツの美名に心底酔い痴れるのは日本人くらいのものである。事実、北朝鮮は五輪開催直前に壮大な軍事パレードを計画して、韓国の更に上を行くスポーツの政治利用を計画しているという。

安倍首相は外ヅラが良いから、今のような国際社会の在り方の激変期には、各国首脳の中でもひときわ目を惹き、日本にとってはその意味では有難い首相である。併し、怜悧に観察すると安倍政権の政策の多くは惨憺たる有様で、特に韓国には殊の外甘い売国政策を連発し、日本社会の韓国化に力を入れているとしか言いようがない、日本には害多い政治家である。最近は、いつも必ず言う事にしているが、「日韓慰安婦合意」は冤罪を認め、先人の顔に泥を塗る政治決断であり、所謂「ヘイトスピーチ対策法」は、故無き非難、大嘘を言い募る在日朝鮮人を一方的に擁護し、真実を以って反論する日本人の口だけを封じる極めて不公平な天下の悪法である。そして、韓国の国策企業であるLINE(株)に日本国民の個人情報漏洩を危険視すらできない意識の低さで見切り発車した「マイナポータル制」は、韓国企業だけが日本国民の個人情報を知り得る、日本企業を一方的に不利にする制度である。その上、主要国で日本だけが平昌冬季五輪開会式に首相が出席すると言うのだから、安倍首相の韓国贔屓は反日的と言っても過言ではない。

先に述べたように、主要国首脳が殆んど出席しない中での平昌冬季五輪開会式に、習近平氏と安倍首相が出席する事は、面子ばかり気にする韓国の体面を辛うじて保ちはするだろうが、韓国は日本に対して絶対に感謝などしない。米国の指示とは言え、日本はまたしても政治利用されるのである。安倍政権に限らず自民党政権が続く限り「韓国と日本の不条理なこの関係」はずっと変わりはしないだろう。まるでこれはデジャブーのようである。2008年の北京五輪では、チベット暴動を武力鎮圧(事実上の大量虐殺)をした胡錦濤(当時)主席の中共への反発から、世界各地で一般市民が聖火リレーを妨害する動きが見られた。これは決して感心すべき行為ではないが、今のように中共の人権弾圧に世界中が口を噤んでいる状態よりは、当時の国際社会の反応はマシであったのである。米国を始めとした欧米主要国が中共の人権弾圧を黙認するようになってから久しい。

ダライ・ラマ14世と長年親交のあった英国のチャールズ(当時)皇太子は、中共からの五輪開会式の招待状を毅然と断わったし、有名人の中では、スティーブン・スピルバーグ監督や、アイスランドの世界的ディーバ、ビョークさんや、俳優のブラッド・ピット氏なども反中共の人権弾圧反対運動に共鳴する声明を出した。若い頃からチベット問題で抗議活動を続けていたリチャード・ギア氏も当然抗議の声をあげた事で、中共の人権弾圧は世界中に知れ渡った。併し、中共の映画市場に色気を出す米国映画界が、人権問題に目を瞑り始めた事で、メジャー映画界は未だに信念を曲げないリチャード・ギア氏を疎んじ始め、今では事実上、米国のメジャーな映画制作会社から干されている。日本のテレビCMで寅さん役を務めて貰えるのも、地元で干されているからだと思うと、信念の人、リチャード・ギア氏のCMを観る度に氏への尊敬の念が湧いてくる。

世界各国首脳も当時のこの流れは無視できず、人権弾圧に鈍感だというレッテルを恐れたヨーロッパ先進国首脳たちは、北京五輪の開会式への出席を次々と取りやめた。中共への経済的依存度を深めていたフランスのサルコジ(当時)大統領はダライ・ラマ師と会談の席を設けたという理由だけで、中共に進出していた仏大手スーパー、カルフールへの不買運動を仕掛けられ、開会式出席の取りやめを公表しながら、結局は出席する羽目になった。併し、ドイツのメルケル首相、英国のブラウン(当時)首相、ポーランドのトゥスク(当時)首相、カナダのハーパー(当時)首相、ニュージーランドのクラーク(当時)首相、チェコのクラウス(当時)大統領、も開会式への出席を取りやめた。チェコはプラハ市長も、運動兼教育部長も大統領と共に北京五輪をボイコットした。大統領選挙中のクリントン、マケイン両候補も開会式出席取りやめ圧力を受けた結果欠席表明をしたが、現職候補のブッシュ米大統領は中共の経済力に屈して出席した。そういう中、尖閣諸島や東支那海に於ける資源開発問題も紛糾していたが、後に「人の嫌がる事はしないんです」の迷言を残した日本の福田康夫首相は、いそいそと北京五輪の開会式に出席した。日本とはそういう国なのである。

事実上の宗主国である米国の命令があったとは言え、今回の安倍首相の決断には、日本の政治家の信念の無さが如実に、痛ましいほど現れている。これだから、韓国政府と韓国人は「日本に対してなら何をしても許される」という日本政府が与えた自信を更に深めていくのである。それにしても、昭恵夫人の韓国好きは仕方ないとしても、慰安婦と名を変えて70年以上も時を経た追軍売春婦問題に、国家として謝罪と賠償金まで支払った安倍首相が見せる、韓国への余りにも節操がない数々の言動には、心ある多くの日本国民はもっと怒りを見せなければおかしい。西尾幹二氏が昨年辺りから盛んに「日本の保守層を自認する有権者は安倍晋三氏にだけは甘過ぎる」と苦言を呈しておられていたが、正しくその通りである。様々な要因に鑑み、もう暫くは安倍自民党に政権を任せざるを得ないと判断した私自身も、今となっては大いに反省し、後悔するべきであろう。やはり、日本を託せる人材が出てくるのを悠長に待っていては駄目なのである。

確信犯的韓国贔屓の安倍晋三氏には、事、朝鮮民族に関する妥協だけには、明確に「ノー」を突き付けなければ、中共の組織力を後ろ盾にした韓国の「ディスカウント・ジャパン政策」などと銘打った穢れたあさましい怨恨感情に、日本はこれからも国家としての毅然とした反論姿勢を見せはしないだろう。一時期の隆盛が幾分下火になったと胸を撫で下ろす暇もなく、現在のテレビ番組表には韓国の嘘塗れのドラマがまた氾濫してきた。年の変わり目と同時に、それはもう一挙に増えた。マスメディアから在日朝鮮人を排除せねばならない必要性とその時期は、もはや待った無しなのである。自民党のような大勢力で無くとも、マスメディアから外国人を排除できるような法律は、国会議員なら誰でも議員立法という方法でできる筈である。親韓派がのさばる自民党からも、そういう今の日本が真に必要としている法案を出す議員がひとりくらい居ても不思議ではないし、立憲民主党や共産党は論外としても、旧民主党、旧民進党その他の中にもひとりくらいは居てもいいだろうに。政治家も知識人も一向に、僅か1%の朝鮮民族の支配下に置かれる最終局面を迎えている日本という国家と日本人の危機に気付かないのはどうした事か?

書籍やYouTubeなどで、迫り来るグローバリズムの危機に警鐘を鳴らす馬淵睦夫大使の理路整然とした見立てによれば、トランプ米大統領とプーチン露大統領と共に安倍晋三首相がナショナリストとしての力を発揮する可能性に期待したい気にもなってくるが、果たして安倍首相にその大任を受け止める素養があるのだろうか? 甚だ心許ない気がする。グローバリストたちの暗躍と計画性には、私なりに異論もあるが、大枠で馬淵氏の説明には感心し納得もできる。問題は、果たして安倍晋三氏が期待通りナショナリストとしての役割を熟(こな)せるかどうかである。安倍首相はグローバリズムそのものの政策を数多く実現しているが、男系男子の皇統に拘(こだわ)るなど好ましいナショナリストの側面も垣間見せる不思議な政治家である。前回のBlogタイトルで安倍首相を「摩訶不思議」と評した所以である。グローバリストの支配構造に造詣の深い馬淵大使に対抗するようで烏滸がましいが、私の見立てでは政治家安倍晋三氏という人物は極付きのポピュリストである。

安倍晋三氏という政治家が、自立的ナショナリストでは無いにしても、ポピュリストであるなら、国民の多くが強く望めばナショナリストとしての側面を強く出してくる可能性に期待できる。併し今のように、日本国民が戦前の日本人が持っていた、「普遍的正義感と正直さ、日本人である事への誇り、天皇陛下をお慕いし、国を思う心」を失なっていては、只のポピュリストは好ましいナショナリストへと決して変貌してはくれない。いつも私が主張するように、時の政権は時の国民の「鑑」ではなく「鏡」であるとしたら、我々日本国民自身がもっともっと賢くなって、戦後身に付いてしまった「薄汚れた偽善と臆病」を振り払い、本来のまともな日本国民の姿に立ち戻らないと、為政者もまた、薄汚れたまま何も変わらないという事になる。ポピュリストの変節に時間は掛からないが、国民そのものが賢明になる為にはそれ相応の時間を要する。併し、望みはある。今の国会を舞台とした馬鹿げた論議にも関わらず、この日本が持ち堪えているのは、日本国民の民度の高さ故である。民主党政権の無能さに呆れ、信念なき我欲のみの渡り鳥政治屋小池百合子氏の欺瞞を見抜いた日本国民は、まだまだ捨てたものではない。

そう考えれば、日本復活も強(あなが)ち果たせぬ夢ではない。日本人が本来の日本人に立ち戻る為には、何かの切っ掛けさえあれば良いのかも知れない。そう考えると、朝鮮民族の嘘に塗れた横暴に穢された日本の惨状を覆せる可能性も仄(ほの)かに見えてくるような、微(かす)かではあるが希望の光が見えてくる気がしてくる。人は希望が無ければ生きては行けない。その裏返しで、例え僅かではあっても希望があるなら、前向きに闘おうという力が漲ってくるものだ。希望ある限り、私は諦めない。日本の惨状は半端なものではないが、微力ながら危機が逼迫している事実をこれからも訴え続ける。誰が読んでくれるか、誰も読んでくれないかも知れない、このBlogの更新は続けたい。気力が失せれば、このような拙文でさえも書き続ける事はできない。その「希望を失なった老評論家が先日この世を去った」件についてFacebookに投稿した。西部邁氏の自殺については、西部氏を悼み、ご冥福を祈る心に偽りはないが、その衝撃的な訃報にまごつき、よく知りもしない西部氏の生前のご活動に心の中で賛辞をおくった。併し、その賛辞をおくった心の一部を撤回したいと思う。

諸外国の人々と違って日本人は、死者に鞭打つような言論を嫌う。嫌うというより、そういう言動を嫌悪し、軽蔑する。況してや日本という国に少なからぬ貢献をした人物に対しての批判は、その意図が建設的で有ろうが無かろうが、徹底的に忌避する。そういう価値観を持つ日本人から観れば、自殺を遂げた老評論家への賛辞の撤回などと聞けば、さぞかし好ましからぬ振る舞いに見えるだろう。私も日本人の端くれだから、自分が何を書こうとしているか、恥ずべき、そして忌むべき行為を仕出かす怖れは十二分に理解している。併し、心にもない歯の浮くような賛辞は是が非でも撤回せぬままでは、自分が納得できない。だから敢えて日本人としての禁を犯す。実際、Facebookに投稿した文章は一言一句たりとも変更する必要は無いと断言できる。要は、私の心の内の問題である。私は西部邁氏の言動をごく一部しか知らない。西部氏が多くの人々から尊敬される人物である事実は知っているし、現に私も評論家西部邁という人物の言論の一部に触れ、多くを学ばせていただいたから、尊敬の念も確かに持っている。

併し、この「知の巨人」とも言うべき人物について、ご本人の自殺を機に更に深く自分の心の中を探ってみた。そして訃報に接した時より、より多くの情報を得て、西部邁という知性優れた人物の、明らかに私などには及びもつかない偉大さも知った。併し、故西部邁氏は私が期待したような望ましい日本の保守主義者ではなかったような気がする。物事を語るときに、やたらと英単語に訳してその単語の由来を語る語り口を、私は心の奥底で秘かに嫌っていた。天皇陛下の譲位に関して語った文章に、日本国憲法に於ける、天皇の「象徴」を、「sign」と言い換え、「象徴」は原始人に於いてはトーテム(totem pole)であるから、やがて朽ち果てて腐ってしまうまで崇めると例えて見せた。今上陛下の譲位のご意思を「朽ち果て腐り無に帰する前の行為」として「生前退位」と言う言葉を使うに至っては、この人は本当に天皇陛下を尊敬されているのかと反感を覚えた。

また西部氏は嘗て、皇位継承問題に関して、日本国家を統合する為の象徴機能は皇室に於いては、「血」統よりも「家」系を重視する方向に於いて、よりよく維持されると思われると言い、「女系」にも「女子」にも皇位継承が可能なように(皇室典範第二条の)「継承の順位」を変更した方が良いと述べていた。西部邁氏の訃報を知った衝撃から醒めた後に私の頭を過(よ)ぎった「嫌な勘」は当たっていた。私がFacebookに投稿した追悼の意を込めた投稿文は些かも変更する気は無いが、2678年の長きに亘って先人が護り通し、これからも日本人が子々孫々に亘って護り通すべき万世一系の皇統の断絶を容認する故西部邁氏は日本人として一番大切な芯を欠いていたと言わざるを得ない。我々日本人は、世界の宝とも言うべき日本の「万世一系の皇統」を絶やしてはならない。あの時、心に感じたものと、今、心に感じているものとの違いをこのままにしておくのは、自分に正直ではないと思うから、今の気持ちを正直に書いた。今は亡き方を批判すると言う、日本人としての禁を犯した行為は言い訳のしようが無いが、私はこれからも自分に正直で在りたい。