最近、ひょんな事から、思い掛け無い勉強をさせて貰った。それは、この日本で言論統制を強行するFacebookに、私が愛想を尽かして、「日本という国と、大和民族の滅亡を回避すべく、日本国内に蔓延る朝鮮民族排斥の必要性」を世間に訴える主張の場を、ここのような個人Blogに変更した為に、従来より続けてきた、Facebookへの本格的投稿が劇的に少なくなる中で、形ばかりの投稿文をFacebookにアップしたのが事の始まりであった。「日本人社会に密告制度は馴染まない」という私の投稿に、猛反発してきた「保守活動家」を名乗る連中に付き合うのは、私にとっては甚だ不愉快であり、些か辟易としたが、私に言わせれば「頑迷で、幼稚で、いい大人がまるで不良少年のような乱暴な言葉遣いをし、人をせせら嗤うような礼節を欠いた彼等のコメントや、尋常ならざる彼等の妄想や大嘘」に接した事で、意外にも、私の間違った思い込みに気付かせて貰ったのは、皮肉にもひとつの収穫であった。「日本人も、とうとう此処まで堕ちたか」というのが、私の実感である。


私は常日頃から左翼系の人々を、所謂「東京裁判史観」の洗脳から抜け出せない愚かな人々である、と考えてきた。何を言っても彼等の確信は変えられない。とにかく、左翼や日本人に成り済ました在日朝鮮人は、愚かで、言葉が汚い…  ずっとそう考えてきた。自分の愚かさを知らず、異論を聞く耳を持たないから、彼等は、「進歩しない、人を罵るから言葉遣いが汚い、当然、礼節など知りもしない、そして、息を吐くように嘘をつく」。これが左翼や在日の特徴である、と思い込んでいた。併し、現実にはそういう連中は、決して左翼や在日ばかりではなく、保守的傾向を持つ日本人の中にも、そういう輩が厳然と存在しているという事を知って、些か驚いた。考えてみれば、人は千差万別で当然。どの社会にも低レベルな輩はいて当然。こんな単純で当たり前の事実にも思い至らなかった私の方が、よほど頭が悪く、思い込みが激しかったのである。正直に告白すると、「左翼=馬鹿、保守=賢明」という図式が、私の頭には、無意識のうちに出来上がっていた。ところが現実の日本には、右も左も真ん中も、日本人らしからぬ愚か者が大勢いるのである。私は、ごくごく一部の例外を除き、「恩という概念を知らず、下卑た怨恨感情の獣、妄想を現実と思い込んむ大嘘つきの性犯罪者」と言ってもいい、朝鮮民族をずっと見下してきたが、実は、日本人にも、そういう連中が少なからずいるのを見せ付けられたのである。


私は何も、投稿した自分の主張に対する、全員の賛同など期待してはいない。私の投稿を読んで、「それは違う」という意見を聞いても、寧ろ、異論はあって当然だと思う。面と向かって何時間も討論した訳でも無い、一方的な私個人の意見を投稿したまでであるから、異論が出ない方がおかしい。そして、神ならぬ身であるが故に、私も多くの間違いを犯す。理路整然と誠実さを以って諭されれば、人間は自らの間違いを正すものである。だから、見解の相違や、主張内容の正誤は問題ではなく、「異論の伝え方」、「反論の仕方」が大切なのである。日本人の大切な美徳である、「正直、誠実、謙虚、礼節」というものを蔑ろにする行為に対しては、いつも私は不愉快な思いをしてきた。日本人たるもの、「礼に始まり、礼に終わる」という事は、常識として身につけていて欲しい。そのように躾けられて育つのが、本来の日本人の姿である。況してや、FacebookなどのSNS上の遣り取りなど、一面識もない赤の他人とのコミュニケーションである場合が殆んどである。上長の差とか、専門家か素人か、或いはその中間かとか、実に様々な異なる経験を積んで大人となった相手との、初めての遣り取りには、例え見解の相違を伝える場合でも、最低限の礼節だけは守るべきである。それが日本人というものだ。


既に何回も書いてきた事だが、今や、日本のFacebookは、まともに真実を主張できる場では無くなってしまった事は、保守的傾向を持つ会員にとっては、周知の事実である。Facebookを単なる「気楽な意思疎通のツール」、「一寸した息抜きの井戸端会議の場」として利用する人には、ピンと来ないかも知れないし、どうでも良い事だと思う人も多いだろう。Facebookの使い方まで指図する権利は、私には無いから、そういう人が私の投稿を無視するのは自由である。併し私は、そういう意識の人にこそ、「今、日本が置かれている危機的状況」を理解して貰って、共に戦って欲しいと考えてきた。間違いや、知識不足は、誠実な遣り取りの中で解消でき、互いに高め合っていけるものである。自分と異なる視点や見解など、端(はな)から理解しようとしない、愚か者など念頭には置いていない。人間としてこの世に生を受けた以上、人は人生の終わりを迎えるまで、人格を高め、知識を積み上げ、知恵に磨きを掛け続けるべきである。その意味では、「異論との遭遇」は「研鑽の機会」であり、「有り難い出会い」なのである。人間というものは、幾つになっても悟りなど得られはしない。「自分は絶対に正しい」そう思った時、人の進歩は止まる。このBlogも、そういう積もりで書いている。だから、訪問者のカウント数の割には、コメントを残す人が少ないのには、いつも物足りなさを感じている。


FacebookなどのSNSの使い方は、個人の自由である事は、先に述べたが、併し、Facebook日本法人が、「日本国民が知るべき、この国の危機的状況を隠蔽する行為」に加担しているという事は、思想心情に関係なく、誰もが「検閲」されているという事を意味する。「検閲」の被害を受けた実感が無い人も、「検閲」された結果、「問題なし」と、Facebookの下請けの在日企業の社員が判断して、投稿が許されるのである。そういう仕組みになっている。Facebookの会員である以上、全員が、投稿文削除とアカウント停止処分を科された人と同じ「言論統制下」にいると自覚した方がいい。投稿文だけではなく、それに関わるコメントの応酬も監視されている。パソコンで解析してみると、私とコメントの応酬をした人の文末に、「管理する」と運営側の書き込みを見る事ができる。私と私に汚い言葉を浴びせてきた自称「保守活動家」は、共に継続的管理対象とマーキングされているという事だ。Facebookの言論統制が、恰(あたか)も、VANKなる韓国人組織の「不適切投稿」に支えられていると思い込んでいる、自称「保守活動家」は、VANKと思しき人物を、FBFに多く紛れ込むのを放置しているという私を罵るのだが、私に言わせれば、VANKはいるだろうが、執拗な彼等をFacebookから根絶するのは、ほぼ不可能である。排除しても、排除しても、サメの歯の如く、彼等はまた出現する。要するに「イタチごっこ」なのである。VANKのメンバーだと決め付ける根拠も確立していない中で、排除の論理の優先は、身内同然の仲間を傷付ける恐れさえ否定できない行為である。


VANK狩りに血道を上げる、自称「保守活動家」は、「VANK憎し、VANKFBFに抱える私の不作為憎し」に目が曇って、物事を時系列で理解する事すら忘れている。Facebook日本法人が、今のように厳しい言論統制を始めたのは、昨年9月頃の事である。Facebookの会員の中でも、右寄り、若しくは保守的な思想を持つ者が、その立場を主張したり、「在日朝鮮人が表沙汰にされたくない史実」について投稿する行為を、Facebookの運営側が、厳しい監視体制を敷く事により、阻み始めたのは、つい最近の事なのである。それ以前からVANKは活動していたが、Facebookの運営側に、今のような言論統制を強いる程の影響力は無かった。これを理解できれば、Facebookの言論統制に占めるVANKの工作活動の影響度合いなど、極めて低い事が分かる筈だ。それでも、「VANKは憎いから、排除する」と言うなら、それはそれで自由にすればいいが、赤の他人である私に、その活動への参加を強要する権利はない事くらいは理解していただきたい。「特定の言論の監視」という卑劣さには、「朝鮮民族による史実隠蔽工作」の臭いが拭いきれないのは事実だが、言論の自由を取り戻す為の戦い方は、人それぞれの方法があっていいではないか。Facebookの言論統制の元凶を、VANKだけに求めるのは、目的の矮小化に他ならない。


そもそもFacebook日本法人が、セキュリティ全般をF-Secureという企業に外注し始めたのが、事態をより浅ましく、卑劣なものにしてしまった原因である。この企業は、現在ネット上で調べると、フィンランドに本社があるとされているが、昨年9月頃から、急激にFacebook側からアカウント停止と投稿文削除をされ始めた私が、調べた段階では、F-Secureの本社は韓国であった。フィンランドの国名がネットで確認できるようになったのは、今年からである。これは余りにも、取って付けたような、恣意的な目眩し行為であると言わざるを得ない。フィンランドなど、この件には何の関係もない。この下請け企業の正体は、韓国国家情報院と繋がりがあるとされる企業、韓国ペンタセキュリティシステムズの完全子会社で、既に姿をくらました通名 桜田仁隆なる在日が、両社の日本支社の社長を兼任していた。だから当然、Facebook日本法人による「検閲」は、在日朝鮮人の手に委ねられている事になる。こういった構図を持つ、Facebook日本法人の言論弾圧の元凶を、VANKによる「不適切投稿としての通報」だと目くじらを立てるのは、「群盲象を評す」が如く、全体像を見誤っていると言わざるを得ない。


真っ当な発言が、執拗に妨害され、様々な嫌がらせを受けるのは、決してVANKの所為ばかりではないのである。ついこの間までは「朝鮮人」という言葉も、マスメディアなどでは「差別用語」として自粛されていたが、SNSなどのネット上では、よく見かける言葉であった。当然、Facebookの「検閲」対象ではなかったし、「在日朝鮮人一世どもの日本人に対する蛮行の史実」を、長文で投稿する事も、Facebookは何ら問題視してはいなかった。当時、既にVANKは存在していたが、VANK如きにFacebook日本法人に言論統制を強いる力は無かったのである。では何故、最近になってFacebook日本法人は、急に言論の自由を規制し始めたのか? VANKでも何でもない、他ならぬ日本政府が、Facebookに言論統制のお墨付きを与えたのである。所謂「ヘイトスピーチ対策法」が、そのお墨付きである。日本人有権者が選び出した自民党国会議員が法案を提出し、血税を使って、国会で議論し、野党議員たちと共に、全会一致で、現代の日本社会に於ける言論統制を許したのである。これが理解できれば、自称「保守活動家」が、Facebook日本法人の言論統制の元凶が、実は日本の立法府である事実に着目せず、「VANKの所為だ、VANKが悪い」と騒いで、赤の他人のFBFVANKだと断定し、ブロックしろと強要してくる行為が、実に愚かしい事であるのが分かる。


オーストラリア公正取引委員会(ACCC)が公開した「討議報告書」には、ユーザーの「特定の意見や思想を汲み上げるアルゴリズム」の存在が明示されている。高度なIT技術を駆使して、FacebookなどのSNSの会員の発言が、常時監視され続けているという事は、個人の思想、心情も、常時監視され続けているという事を意味する。Facebookの言論統制は、決して、VANKの「不適切な投稿との虚偽報告」に全面的に依存しているのではない。言論統制を是とする風潮の高まりは、VANKの攻撃対象に限らず、世界的な風潮なのである。そして、「不適切な投稿」の殆んどは、「自動的に判別」されているのである。では「適切な投稿」と「不適切な投稿」の基準は、誰がどのように設定しているのだろうか? 「人為的に設定されたアルゴリズムによる検閲」の結果、Facebookの運営側が定めた「コミュニティ規定」に「違反している度合い」により、3日間とか、7日間とか、30日間などの「アカウント停止処分」と「投稿文の一方的削除処分」が下される。更に何と、「規定違反による処分」は、規定がつくられた時期より数年前にまで遡って科され、然も、「違反度合い」の判断基準は明示されておらず、曖昧である。「法の不遡及」や「事後法の禁止」という、近代法治国家の常識からも逸脱した言論統制である事は明白である。


朝日新聞や、NHK、そして民放各社など、所謂マスメディア同様に、FacebookなどのSNSでも、言論統制が公然と横行するようになってしまったのは、実に残念である。比較的、言論の自由が許されていた、SNSの世界にまで、「反日的言論統制」が浸透してしまったのは、日本社会の大きな損失と言える。普段から普通に生活を送る日本人は、余り意識する事は無いだろうが、「日本が言論の自由を失なった」時期は、何も昨日今日ではない。私が、過去に何度も指摘してきたように、日本が「大東亜戦争」(太平洋戦争ではない)に敗戦して、国際社会に復帰を許された当時は、もう既に、在日朝鮮人や日本国籍朝鮮人ども(例え帰化して日本国籍を取得しても、朝鮮人は所詮朝鮮人であるから、私はそう呼ぶ)が、政界、財界、法曹界、教育界、マスメディア、出版界、芸能界、IT業界、等々、日本社会に多大な影響力を持つ、謂わば日本の中枢に大勢紛れ込んでしまうのを許した日本社会が、占領軍が去った後も、「自主検閲」を続け、自ら言論の自由を封じたのである。日本に不当に居座った朝鮮民族を、懐深く招き入れてしまったのは、「米占領軍の悪意ある政策」と、「敗戦利得者」と呼ばれる、れっきとした日本人たちである。彼等は共産主義思想に染まり、敗戦前は日本の中枢に近づく事さえ許されなかった者たちである。そして、彼等の恥ずべき行為を座視してきた、日本国民たる有権者の責任も不問に付す事はできない。


日本人が「歴史の真実」に目醒める事を恐れ、「偽りの歴史と、偽りの贖罪意識」を、徹底した洗脳工作で植え付けて行ったのは、「大東亜戦争」の実際の戦闘期間である、38箇月間よりも長い、68箇月間も日本を占領していた「連合国最高司令官総司令部」(GHQSCAP)である。実際は米国一国で構成された占領軍は、国際法無視の「極東国際軍事裁判」、所謂「東京裁判」で不当判決を下して以降、有りと凡ゆる手段を用いて日本を改造していった。GHQSCAPは、「自由と民主主義」を標榜しながら、実際には、「検閲」による言論統制を強行し、「神道」を禁じ、「神話教育」を禁じ、有ろう事か「焚書」まで断行し、更に、日本再興に欠かせぬ知財と人材を、国家の中枢から悉く滅し、追放した。師範学校は解体され、在日朝鮮人を中心とした「日教組」が組織されるに至って、「東京裁判史観」に歪められ、偽りの贖罪意識に塗れた「戦後教育」の普及が始まったのである。現代日本の現役世代は、政治家も、財界人も、裁判所の判事や弁護士も、教育者も、マスメディアも、総て歪められた「戦後教育」を幼少期より受けた世代なのである。


何より問題なのは、占領統治中にGHQSCAPに押し付けられた「日本国憲法」なる「亡国憲法」を、占領統治されている時点では逆らえなかったとしても、曲がりなりにも主権国家として国際社会に復帰した、「サンフランシスコ講和条約」発効後も、「亡国憲法」を押し付けられた被害者である筈の日本人自らが、「平和憲法」などと世迷言を言って「破棄」しなかった事である。中学生程度の国語力があれば、「日本国憲法」が日本の主権を否定している内容である事くらいは理解できる筈だが、後に述べる「公職追放令」という、GHQSCAPの横暴により、戦後日本の復興に必要不可欠な人材は総てその職を追われ、GHQSCAPが去った時には、公職を追われた人々が戻るべき場所は、そこに居るべきではない者たちに占拠されていた。当時も今も有効な「戦時国際法」である、「ハーグ陸戦条約」は第43条で、「占領下に恒久憲法をつくってはならない」と明確に規定している。「日本国憲法」がつくられた時は、正に日本は占領下にあった。それを今頃になって「改憲」しようなどとは、正気の沙汰ではない。


日本人は、GHQSCAPによって、これ程までに、奴隷根性を植え付けられてしまったのである。「日本国憲法」も、それに依拠した「戦後教育」も、根底に流れる思想は、悉く間違っている。現代の日本のマスメディアに登場する、或いはマスメディアに少々煙たがられて、余り一般人の注目を集めない、所謂「保守言論人」たちも、押し並べて皆、この奴隷根性を受け容れてしまっている。奴隷根性を受け容れた上で、日本の改革を考えるから、譲ってはならない「原則論」を平気で無視してしまえるのである。実名は避けるが、メジャーな「保守言論人」たちは、決して「日本国憲法を破棄せよ」などとは言わない。「憲法破棄など非現実的であるから、できる事から手を付けて行きましょう」という姿勢を取るのである。できる事とは、安倍政権が力を注ぐ「改憲」である。これは、「できる事」でさえ無く「できるかも知れない事」であろう。その内容たるや、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という有名な迷文が書かれている「日本国憲法 前文」に手を付けようともしない、極めて消極的なものである。


そんな、愚にも付かない程度の「改憲」に、多大な精力を費やすなら、自衛隊法を全面的に見直した方が、よほど有用である。自衛官に、「これやあれだけをやりなさい」と明記した、所謂「ポジティブリスト」方式をやめて、「これとあれだけはやってはいけません」と明記した、「ネガティブリスト」方式に、全面的に改編するのである。想定外の事態には、現場に裁量権を任せるのである。形ばかりの、本質的には何も変わらない、今取り組もうとしている「改憲」などより、「自衛隊法のネガティブリスト化」の方が、よほど国益に利する。いつ不測の事態を招くかも知れない、常態化した中共の領海侵犯や領空侵犯、益々増加する北朝鮮の不審船問題、中共と北朝鮮と韓国による違法操業対策、等々、を放置して、実質的に無意味に近い「改憲」をして、何が解決するというのだろうか? 「何をやっても、日本には何もできないし、日本など怖くもない」と侮られているから、日本は特亜三国に舐められるのである。前述したVANKなる組織に世界中で反日工作をさせている韓国に、日本はどれほど舐められれば気がすむのかと、日本政府に問い質したい。


日本の復興を、大きく妨げてしまった「公職追放令」に話を戻す。175000人とも20万人とも言われる、「公職追放令」の対象者は、それに先立って出された「教職員追放令」により、多くの立派な教育者が含まれていた。今では、その両方を一緒くたにして「公職追放令」と呼んでいるが、その対象は、本来の公職ではない「民間」にまで及んだ。それまで冷や飯を喰っていた共産主義者や反日左翼が、追放されて空席となった職務に就いた。そういう、所謂「敗戦利得者」は、実際には、70万人とも90万人とも言われている。東大、京大、一橋大など、日本の主要大学の総長、学部長クラスの多くは、「敗戦利得者」で占められ、共産主義者、反日左翼たちの手に、完全に握られてしまった。 彼等が戦後、日本中に数多くつくられた、大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、且つ、彼等がつくった試験問題で「日本を大切に思わない高級官僚を含む大勢の公務員」が職に就いた。「敗戦利得者」の劣化再生産、劣化コピーが日本中に溢れたのである。こうして、行政府や地方自治体、アカデミズムやマスメディアに左翼が君臨し、新聞・ラジオ、後に普及するテレビからも、歴史の真実を追求する憂国の士が締め出されるに至った。悪質な事に、GHQSCAPと敗戦利得者は、其処彼処に母国に帰る事を拒んだ在日朝鮮人を招き入れもした。


日本は、占領統治中から、サンフランシスコ講和条約発効後も、現在に至るまで、ずっと、GHQSCAPが遺していった「言論統制」を忠実に守ってきた。その恥ずべき風潮は、「敗戦利得者」や「在日朝鮮人、日本国籍朝鮮人」が、この日本に地歩を固めてしまった現在に至っては、お行儀の良い遣り方では、本質的な変革など、何もできはしない。大日本帝國が敗戦し、ダグラス・マッカーサーが占領統治者として強権を発動すると、「一夜にして変節した」当時の日本国民の変わり身の速さを目の当たりにした白洲次郎は、心の底から嘆いたという。白洲次郎は数多くの名言を遺しているが、ここでは三つの名言を挙げる。『我々は戦争に負けたが、奴隷になったのではない』、『この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった』、『私は、戦後というものは、一寸やそっとで消失するものだとは思わない』である。現代の日本人には、この言葉を遺した白洲次郎の真意を、真剣に、深く、噛み締めて貰いたい。「日本国憲法」と「サンフランシスコ講和条約」に直接携わった日本人、白洲次郎の、日本人としての悔しさが滲み出ている名言である。


白洲次郎といえば、日本国籍朝鮮人、孫正義のSOFT BANKのテレビCMに触れない訳にはいかない。今も流れる、日本人に対する侮蔑的CM、「白戸家の人々」シリーズでは、白洲次郎を一文字だけ変えて、白戸次郎としたが、白戸家の家長である白戸次郎は、朝鮮人が最も軽蔑するという「犬」の設定である。朝鮮人は人を侮辱する時、「この犬野郎!」というらしい。奥様の名は、信子のまま変えていない。娘は朝鮮人芸人の上戸彩を起用し、兄には、これまた朝鮮人が何故か軽蔑するという、アフリカ系である。全員が朝鮮人である事が判明した、解散前のSMAPが、巨大な犬を模した建物から歌いながら出てくるが、建物を引きで映すと、SMAPの面々が出てくる場所が、犬の肛門に当たる場所である事が分かる。いや、日本人には分からなかったが、在日には瞬時に分かり、大いに受けたという。孫正義自身が雑誌のインタビューで、「我が社のテレビCMには、企画段階から自分が関わっている」と笑顔で答えているのだから、日本人は舐められたものである。通信の大手キャリアとしてのSOFT BANKは、在日朝鮮人には特別安い通信料金を設定し、その損失分を日本人加入者に上乗せしている。朝鮮人という輩は、どこまで日本人を舐めれば気が済むのだろうか? 蛇足だが、東日本大震災の直後、「ポケットマネーから100億円を被災地に寄付する」と大々的に発表した孫正義は、実際には一円足りとも寄付などしていない。これは私が、自分で追跡調査したから、断言できる。


在日朝鮮人に対して、偽りの贖罪意識を植え付けられている日本国民は、よくよく考えなければいけない。そして、自戒し、本来の日本人の誇りを、自らの力で取り戻さなければならない。私は、韓国人も、北朝鮮国籍の朝鮮人も、中共の東北三省に棲む朝鮮族も、世界各国でどの民族よりも多数の国に移住している朝鮮人も、そして日本に不当に居座って帰国を拒む在日朝鮮人どもも、そして大嫌いな日本の国籍を取得した朝鮮人も、総て一緒くたにして、「朝鮮人」、「朝鮮民族」と呼んでいるが、国家としての日本は、果たして朝鮮民族と関わって、何か良い事をして貰った事があっただろうか? 何か善意の手を差し伸べて貰った記憶はあるだろうか? 個別案件にまで目を凝らせば、全く何も無かったとは断言できないが、少なくとも、朝鮮民族の研究を25年以上続けている私の記憶には何も無い。あるのは、唯、多大なる損失と、不快感だけである。文在寅(ぶん・ざいいん)韓国大統領や、孫正義の行ないを見ただけで、朝鮮民族が、どれほど日本を憎んでいるかが分かるだろう。


およそ1300年昔の「元寇」の時には、日本人は、特に対馬辺りの人々は、元軍の尖兵として襲来した朝鮮人に、日本人には想像を絶する惨たらしい目に遭わされた。併し、その後の「朝鮮通信使」に対しては、現在の韓国は、日本に文化文明を与えてあげたと言うが、実際には、朝鮮から学んだものなど皆無であり、「朝鮮通信使」を通して「唐」の文物に触れた事はあっても、教えを請うたのは、寧ろ、朝鮮人の方であった事が、現在では明らかになっている。通信使として来日した朝鮮人は、日本の壮麗な繁華街を観て、羨望と嫉妬の感情を紀行文に残しているし、初めて目にした水車に感嘆して、教えを請うた朝鮮通信使に、日本人は水車の図面まで渡してあげた。併し、140年経っても、朝鮮人は水車ひとつ造れなかった。何と、木を曲げる技術さえ無かったのである。実際、日韓併合時の朝鮮には、樽も、桶も、車輪も無かった。当然、水車も無かった。因みに、近代考古学では、「稲作文化も日本から朝鮮半島に伝播した」事が解明されている。


現在の日本のテレビで放送される、華美華麗な朝鮮の歴史ドラマの衣装は、日本人には毒々しいほど、色鮮やかな衣装を纏う女性や、英勇の如き武士もどきが出てくるが、朝鮮には、歴史的に武士や侍は居なかったし、女性は名前さえ持つ事を禁じられ、染色技術を知らないから、皆、薄汚れた白い韓服を着ていた。然も、韓国ご自慢のチマチョゴリは、薄汚れた純白なだけでなく、両班と呼ばれる特権階級が、いつでも女の乳を触れるように、乳房が丸出しになるつくりになっていた。一説には、男子を儲けた母親が、自分は男の子を産んだと、皆に知れるように、乳を出したとも言われているが、100年前の朝鮮の風物を撮影した西洋人が写した写真を見ると、女子の母親も乳房を丸出しにして、恥じるそぶりも見せていない。やはり、女性は両班と男どもの慰みものであったというのが、真実なのであろう。朝鮮人の物忘れは尋常ではないらしい。僅か100年前に自分たちが着ていた衣装も、今はすっかり忘れているのだから。


1876年(明治9年)の「日朝修好条規」締結の時に、日本人の学者が埋もれていたハングルを見つけて、「庶民が文盲ではお困りでしょう。でも、貴方の国には、こんなに便利なものがあるのだから、使わないのは勿体無いですよ」と教えてあげた。そのハングルは、元(現モンゴル)が支那の覇者であった頃、朝鮮半島もその支配下に治め、半島から引き揚げる時に残していった「パスパ文字」を真似たものであり、朝鮮独自の文字ではなかった。要するにパクリである。その後、李氏朝鮮独立の為に清国と戦って朝鮮を独立させてあげたのも日本であった。国家破綻して各国から借りた借金が返せなくなり、大日本帝國に四度に亘って懇願してきた「日韓併合」に応じてあげて、大韓帝国の負債を全部、日本が肩代わりしてもあげた。まだまだ日本も貧しい時代に、日本人の血税を朝鮮人の為に注いだのである。日韓併合時、嘗て日本が推奨したにも関わらず、ハングルは埋もれたままであった。福沢諭吉の弟子の井上角五郎が、埋もれ忘れ去られていたハングルを、再度発掘し、体系化して、100%文盲の朝鮮人庶民に教育した。今の韓国政府は、日本人がつくった朝鮮人の為の日本語とハングルを併記した教科書の存在をひた隠しにしている。


そうやって、史実を隠蔽し、妄想により捏造して、今の韓国人は、「日帝は我々から、言葉も、名前も、富も、産業も収奪した」と、虚偽の歴史を妄想して、恨み言をいうが、実際には、「言葉を与え、名を持つ事も禁じられた女性に名を与え、朝鮮人の希望通り日本名を名乗る事を許し、区画整理をして、定かでさえ無かった土地所有の概念を与え、何も無かった朝鮮に、学校や病院、そして橋や幹線道路、灌漑設備、ダムなどを造ってあげたのは日本人であった。度量衡を定め、貨幣経済を導入し、産業どころか商店も何も無かった朝鮮に、洋風の百貨店まで造ってあげたのも日本人」であった。原始人同然の明日をも知れぬ動物的生活をしていた朝鮮人を、人並みの文化的生活ができるようにしてあげたのは、今の韓国や北朝鮮が逆恨みする、日本であった。 日本人が朝鮮人に善意から損を覚悟でしてあげた事は、数え切れないほどあるが、日本人が朝鮮民族から助けられた事は一度でもあっただろうか? 「朝鮮民族亜人種論」を持ち出すと、「戦後教育」に汚染された日本人は、まともに取り合おうともしないのは、全く以って情けない現実である。併し、学術論はともかく、朝鮮民族と関わったら良い事は何もないという事実に、日本人は、いい加減に気が付かないといけない。


日本人の覚醒を恐れる者たちは、決して、朝鮮民族だけではない。トランプ政権の出現により、米国政府の「日本に対する、歴史的警戒感」に幾分は変化の兆しが見えると言う者もいるが、戦後一貫して、日本国の真の意味での主権回復を、最も恐れていたのは米国であった。おそらく今も変わりはないだろう。米国以外にも、人種差別の上に成立していた植民地主義を、大日本帝國により、手放さざるを得なかった、旧白人宗主国群の殆んど総てが、「日本の復活」を最も恐れている。そして、日本を侵略したくて、うずうずしている中共も、日本の真の意味での主権回復を快く思ってはいない。世界中で反日侮日主義を露わにして、形振り構わぬ卑劣な工作活動を続けている朝鮮民族を、資金力と組織力で裏で支え続けているのは、中共と華僑ネットワークである。外部勢力としての韓国や北朝鮮には、日本はそれほど脅威を感じる必要はないが、日本国内に蔓延る朝鮮民族には、日本人は今後も手を焼くだろう。更に、国家としての枠組みを超えた、国際金融資本や、石油メジャーという、グローバリストたちの、闇に蠢く支配勢力に対しても、日本人は警戒を怠ってはならない。


日本という国家と日本人(=大和民族)の生き残りを阻もうとする敵は、実はたくさんいるのである。然るに「戦後教育」により、正常な発展を許されてこなかった日本人は、「今、自分たちが、どれほど危険な状況に立たされているか」という、危機察知能力、生存本能を発揮できないでいる。宛(さなが)ら「日本国民総お気楽人生」を謳歌しているようなものである。国際社会で今の日本人が生き抜いて行くという事は、謂わば「誰も保護してくれない状態で、狼どもが群れなすジャングルに、裸で放り出される」ようなものなのである。全てを一度に解決する事など、誰にもできはしない。非力な日本人が、一度に大勢の敵に対処できないからといって、悲観的になる必要は無い。今の米国の国力でさえも、同時に二つの戦争は起こせないのだから、日本人が多方面からの敵に、同時に対処できないのは、寧ろ当然である。肝心なのは、緊急性の度合いによって、どの敵と戦うかの優先順位を付ければ良いのである。念の為に言っておくが、私は、VANKなど最優先課題だとは思っていない。


最も重要で、最も緊急度合いの高い「敵」とは何か? それは、日本という国家と、日本人(=大和民族)の「生き様の狂い」である。今の日本人こそが、日本人の最大の敵なのである。私たちの両親や祖父母の世代の日本人は、必死に働き、国の安全保障を米国に丸投げして、戦後ずっと、必死に金儲けをしてきた。一端の経済大国と言われるようになると、我が国は、必死で親の世代が稼いだカネを、世界中にばら撒き始めた。戦勝国倶楽部、戦勝国家群の利益誘導団体でしかない「国連」に、カネを貢ぎ、米国の戦費を負担し、韓国に集(たか)られ、中共にカネを毟り取られ、後進国を支援し、果ては、貸したカネを棒引きまでしてきた。米国も、中共も、韓国も、その他数え切れないほどの日本が支援してきた国々の総てが、そういう日本に、心から感謝し、恩義を感じているだろうか? カネの力は絶大であるが、カネでは、いっ時の感謝しか得られない。辱めを受け、嘘で貶められ、それでも頭を下げて、何でもカネで解決しようとする国家など、誰からも尊敬されはしない。


経済力も重要だが、戦争と聞くだけで怯え、軍事力の行使を全面的に放棄して、他国からカネを集られ放題の国家など、どの国からも軽んじられて当然である。戦後日本は、そういう国に堕してしまった。非力な国家は山ほど存在するが、非力ゆえに軽んじられるとは限らない。今の日本より非力な国でも、今の日本ほど誇りを失なった国家は、どこにも存在しない。日本人は、この現実に気付くべきなのである。日本を蔑み、貶める国家に頭を下げ、カネを払い、阿(おもね)る事を、今すぐにやめなければいけない。日本を嘘で貶めようとする国家と民族には、毅然とノーと言うべきなのである。特に、卑劣な欲望を向ける、恥知らずな特亜三国に対して、腫れ物に触るような対応をしてはならない。嘘を認めてカネを支払うなど、以っての外である。敗戦前の大日本帝國に回帰する必要は無いが、戦前の日本の総てを「悪」と決め付けるのは間違いである。軍国主義に奔る必要は無いが、軍事的に日本を侵略しようと企てる国家には、「下手に日本を怒らせると深傷(ふかで)を負うぞ」という、物理的準備と、精神的準備を、予めしておく必要がある。日米同盟を完全否定はしないが、日本独自でも主権侵害してくる国に、「寄らば斬るぞ」との覚悟を示す能力を備えておく事が重要なのである。


端的に言えば「日本人は、敗戦前の日本人の誇りと実力を取り戻す」事が必要なのである。敗戦前とは、明治・大正・昭和の初期、だけを指すのではない。日本には、どの国よりも長い歴史がある。「戦後だけが、バラ色の民主主義の時代」だと言うのは、「戦後教育」が齎らした歪んだ錯覚である。また、特亜三国を忖度して、へいこらするのはみっともないと知るべきである。野党は論外としても、保守政党と言われる自民党の中にも、中共や韓国に対して、毅然とした対応ができない議員が大勢いる。教育界とマスメディアは、ほぼ、反日左翼と在日朝鮮人に支配権を握られてしまっている。国民の多くは「戦後教育」で、「不必要な贖罪意識」を背負い、「亡国憲法」としか言いようがない「日本国憲法」を、「平和憲法」などと誤った評価をするのが、良心的だとの勘違いをしている。日本全体が狂っている現実に、日本人自身が気付かない限り、誰もこの憐れな日本を助けてはくれない。日本を護るのは、日本人しかいないのである。冒頭で、「保守活動家」を僭称する愚か者について触れたが、日本国民全体の知的退廃は深刻である。自らの愚かさを知らない者に感(かま)けている暇はもはや無い。本来の日本人の知的水準は、決して低いものではないのだから、「今の日本社会と、国際社会に於ける日本の在り方」を、曇りのない目で見詰め直せば、自ずと道は拓ける筈である。日本人よ、いい加減に目を醒ませ!