明治28年(1895年)、眠れる大国と見られていた大清国が、新興国である日本に簡単に敗れ去った事は、当時の国際社会を驚かせたが、日本にも勝算があった訳ではない。巨大な軍艦を何隻も保有していた大清国の北洋艦隊があったからである。併し、清の西太后は北洋艦隊の整備費などを自分の還暦祝いなどに回して盛大に国費を無駄遣いし、予算不足で整備を後回しにされた清の軍艦はぼろぼろだった。1886年には、清はこれらの軍艦のうち「定遠」を長崎まで補給名目で見せびらかしに来た。目的は威圧であったが、ペリーの黒船来航の時もそうだったように、日本人は興味津々で、清の軍艦「定遠」を隅々まで研究し尽くした。だから、清の軍艦の粗末な整備状況や乗組員の練度の低さまで日本の知るところとなってしまった。然も、清の北洋艦隊はベトナムを巡るフランスとの海戦に大敗していた。その結果、乗組員は急拵(きゅうごしら)えの素人集団、軍艦は整備もままならず、大砲を撃つとその衝撃に耐えられずに艦橋が壊れてしまう有様だった。その上、日本との戦いである「豊島沖海戦」では、清の北洋艦隊司令官の方伯謙(ほうはくけん)は、恥も外聞もなく逃げ帰った。陸戦でも清軍の司令官・葉志超(ようしちょう)は逃走を繰り返した。


朝鮮半島から支那本土へと向かう要衝である平壌には、当時の最新兵器ガトリング砲を備えた要塞が築かれていたが、その要塞の司令官も葉志超だった為に、日本軍とはまともに戦おうともせず、またしてもさっさと逃走してしまった。そうとも知らずに、清は長期戦を見込んで平壌要塞へ増援を送ったが、これが日本海軍に見つかって「黄海海戦」が起る。この時、北洋艦隊の軍艦「済遠」に乗っていたのが、「豊島沖海戦」で逃走した方伯謙だった。眠れる大国と見做されていた大清国との「日清戦争」に於いて日本が勝利できたのは、方伯謙と葉志超という、戦史に残るふたりの迷将軍のお陰だった。未だ未だ大国相手には力不足の大日本帝国が、「阿片戦争」で内部崩壊していた清王朝に戦いを挑んだのは、日本にしてみれば、できれば避けたかった死に物狂いの挑戦であった。江戸時代から明治維新を経て、明治政府樹立後、僅か28年目にしての大国相手の大勝利に日本は大いに自信を付けた。


こうして日本は大清国に勝利して、「下関条約」を締結して清の属領同然であった朝鮮半島を独立させて大韓帝國が生まれた訳だが、ヨチヨチ歩きの大韓帝國は、独力では満足な国家運営もできずに、国際社会合意の下で日本が保護国となった訳である。日本の保護国の立場で満足していてくれれば良かったものを、当時の朝鮮人は、「我々も日本人のようになりたい」と熱望・高望みして、「日韓併合」「自ら朝鮮人である事をやめて日本人になる」事を選択したのである。現在では、「戦後教育」を受けた為に日本人自身さえ忘れているが、「日韓併合」は決して日本人の希望ではなかった。今では執拗に逆恨みする朝鮮人どもの、それこそ執拗な願望により「日韓併合」が成されたのである。併合反対派であった伊藤博文が支那のハルビン駅で暗殺された約2箇月後に大韓帝国より次の声明が出された。明治42年(1909年)12月、大韓帝国最大の親日団体で、李容九宋秉畯などが率いる政治結社「一進会」(いっしんかい)が、大韓帝国皇帝純宗(高宗の次の大韓帝國最後の皇帝)、韓国統監曾禰荒助、大韓帝国首相李完用に送った、『大韓帝国と日本の対等合併を要望する声明書』という公式書類が遺っている。当の大韓帝国側の最大多数派が発出した声明書であるから、日本贔屓ではなく当時の状況を正確に表している。


日本側に於いては、陸奥宗光、曾禰荒助、竹越興三郎などが明確に反対していたし、伊藤博文も消極的だった事は有名で、井上馨や原敬も伊藤と同じ考えだった。一方、長州閥の桂太郎、山縣有朋、寺内正毅などは、併合推進派だった。大韓帝國側に於いても、賛成派と反対派双方が居た。それまで朝鮮民衆に塗炭の苦しみを与え、私利私欲を貪っていた皇帝高宗や両班や儒者たち特権を奪われると危惧する階級の者は当然の事ながら併合には反対していた。反対派は国民の67%の特権階級の内の更に少数の身勝手な連中であった。明治42年(1909年)、日本でも併合は避けられないとの観測から、一応、閣議決定はしたものの、併合の時期について、曾禰荒助は「就任時に伊藤、桂と三者鼎談にて、56年様子を見よう」との合意をしていた。ところが、その後1年を経ずして大韓帝國側が大きく前のめりしてきたのである。併合も止む無しとの本音を隠したままの日本側に対し、勇んで併合を打診してきたのは大韓帝国側であった。総理大臣の李完用の側近である、新小説『血の涙』で知られる李人稙が密使として動いた。日本側の併合反対派であった曾禰荒助統監は、朝鮮側の併合案を時期尚早との理由で却下すると共に、新聞社、通信社に働きかけ、反対の論調をとらせた。大韓帝國側の併合推進派である「一進会」は上奏書を却下されてもまた提出し、これを繰り返すこと4回目にして桂太郎首相の指示により遂に受け取られた。これでも、「日本が武力により朝鮮を植民地支配した」という、南北朝鮮政府と国民は大嘘付きであり、日本政府は偽善者の誹りを免れない。


『日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の乱の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に呑み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国に縋り、外交権が奪われ、保護条約締結に至ったのは、我々が招いた事である。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いた。今後どのような危険が訪れるかは分からないが、これも我々が招いた事である。我が国の皇帝陛下と日本国の天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか。』

明治42年(1909年)12月に発出された「韓日合邦建議書(日韓併合を要求する声明書)


この「声明書」の存在を現在の韓国政府と北朝鮮の独裁者は自国民に正しく説明できるだろうか? 恩知らずな彼等は、真実を自国民に説明する気など更々無いだろう。日本を絶対悪として、いつまでも被害者の立場に安住したい韓国政府と、そして自国の人民を大量に餓死させても核開発をやめる気もない北の将軍様は、韓国同様に被害者詐欺を演じて日本から国家賠償をせしめる気でいる。「血は争えない」と言うが、嘘つき民族の血統とは正直なものである。南北朝鮮ともに国内ではこの「声明書」の存在は永遠に封殺し続ける気でいるのだろう。一般の南北朝鮮人は、この「声明書」の存在を知らされず、韓国と北朝鮮という、誠にふしだらな政府が捏造した歴史を両国の国民は史実として教育されているのである。そして、驚くべき事に、日本国民も日本政府・文科相に「日本は朝鮮を武力により植民地支配した」と虚偽の歴史を教育されている。そもそも、明治27年(1895年)の「日清戦争」まで李氏朝鮮は清国の属領地域であり、朝鮮人の「国家意識」は限りなく無に近く、極めて希薄であった。「民族」という概念も日本が朝鮮人に教育した日本語(民族  민족 minjogであり、「日韓併合」の後に朝鮮半島に広まり、初めて「民族」の意識が芽生えた。現在、韓国人も北朝鮮人民も白頭山を朝鮮民族の聖地としているが、これは日韓併合後に生まれた学説である。民族の概念も知らない未開人が後付けで創作(妄想)したのが白頭山=民族の聖地説なのである。朝鮮語の亜流である韓国語では、朝鮮民族を「韓民族=한민족(han-minjog)」と言う。日本人に「民族(민족 minjog)の概念」を教育される前はいったい何と言っていたのであろうか?


繰り返される朝鮮人の対日誣告言説(たいにちぶこくげんせつ)には、このように嘘・願望=妄想が沢山含まれている。全て被害妄想と言っても差し支え無い。それに対して正当な抗議もせず、南北朝鮮の妄想を追認する日本の大学教授その他の知識人と政治家たちのこの有様は何たる恥知らず振りだろう。親日家であったと言われる朴正煕(ボクセイキ)元韓国大統領は、根拠もなく反日言動に走る側近を窘(たしな)めて、こう述べたと言われている。(私は朴正煕が親日家であったという説は疑わしいと考えている) 

『併し、あの時、我々は自分たちで選択したんだ。日本が侵略したんじゃない。私たちの先祖が選択した。もし清国を選んでいたら、清はすぐ滅びて、もっと大きな混乱が朝鮮半島に起こったろう。もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れて半島全体が共産主義国家になっていた。そしたら北も南も完全に共産化された半島になっていた。日本を選んだという事は BESTとは言わないけど、仕方なしに選ばざるを得なかったならば、Second Bestとして私は評価もしている』

 ………冗談ではない。何が Second Best だ。大韓帝國々民が生き残る為には、日本に縋(すが)るしか途は無かったではないか。そして、大喜びしている当時の朝鮮人を記録した新聞が写真付きで幾つも残っている。歴史の一次資料としての価値は認めざるを得ないだろう。正に大韓帝國は国民にとって「BESTの選択」をしたのである。そして日本は子々孫々に亘って後悔する羽目になる「最悪の選択」をしたのである。


好むと好まざるとに関わらず「日韓併合」へと進む大日本帝國を観て、セオドア・ルーズベルト米大統領は、「私は日本が朝鮮を併合するところが観たい。日本が混乱に陥るところが観たい」などと語ったという記録が残っている。生意気な黄色い猿が国際社会で益々存在感を高めていく姿を不快に感じていた白人大統領の有色人種蔑視の感情が如実に現れている言葉である。その後、日本が「大東亜戦争」に敗戦する6箇月前に行なわれた「カイロ会談」に於いて、セオドア・ルーズベルトの甥にあたるフランクリン・ルーズベルト米大統領は、「日本は朝鮮半島を奴隷化している」などと批判し、敗戦後に厚木基地に降り立った連合国軍最高司令官総司令部(GHQSCAP)のダグラス・マッカーサー元帥は「今日は奴隷解放の日だ、朝鮮人が日本から奴隷開放された日だ」などと恥知らずな宣言をした。米国の隔月刊誌『サイコロジー・トゥデイ』の元編集長、サム・キーン氏は著書『敵の顔』で、「敵は自我の否定的側面から構成される」として、「自分の内に認めたくない性格を他人に押しつける事で、不安と罪悪感を縮小する」と述べている。つまり、「米国の負い目である奴隷文化を日本に責任転嫁したい」という願望が言わせた言葉である。日本には外国人を動物並みに酷使する奴隷文化の歴史は無い。GHQSCAPの中にも、ヘレン・ミアーズのように優れてまともな、嘘をつかない人物が存在した事は特筆に値する。ヘレン・ミアーズは、「アメリカの鏡・日本」の著作で知られ、GHQSCAP11人の諮問機関委員会のメンバーを務めた。ミアーズは「日韓併合」について、概ね以下のように述べている。


▪️日本の韓国での行動は全て英国の同盟国として「合法的」に行なわれた。

▪️国際関係の原則の下、当時の最善の行動基準に従って行なわれた。然も、原則は日本がつくったものでは無く、欧米列強がつくった原則だった。

▪️1910年(明治43年)、日本が大韓帝國を併合したのは、韓国皇帝が『請願』したからである。

▪️歴史家は日本は欧米列強から教わった国際関係の規則を、実に細かい所まで几帳面に守っていたと褒めている。


日本は「日韓併合」後に朝鮮人を彼等の望み通りに日本人と同等に処遇した。彼等の上に君臨して、朝鮮を強圧的に支配しはしなかった。国民が蒙昧故に、時に厳しい指導も必要とした。併し、それも元はと言えば朝鮮人に望まれてのものであった。朝鮮人自身が日本人のようになりたいと切望したではないか。「日韓併合」当時とその後の35年間の朝鮮半島に於ける議員、役人や警察官に占める日本人の比率が約2割(8割以上が朝鮮人!)に過ぎなかった事実を考えれば、朝鮮人が日本の指導に不満を持って叛旗を翻すのは簡単であった筈であるが、実際、朝鮮人は殆んど日本人に逆らわなかった。寧ろ、日本人となった事を喜び、それまで朝鮮人を見下していた支那人に対して「俺たちは日本人だぞ!」と急に尊大に振る舞ったという文献が幾らでも見付けられる。「日韓併合」に反対して投獄されたり、死刑に処されたりした朝鮮人が何人居ると言うのだろうか? 後に亡命政府を名乗った李承晩は、日韓併合条約締結当時、何処で何をしていたのか? 李承晩は、朝鮮人改革派団体である独立協会により1896年から1898年まで投獄されたが、釈放後、米国に逃れ、日韓併合条約締結の9年も後の大正8年(1919年)に起こった「三・一運動」後、呂運亨・金九らによって、中華民国上海市で結成された朝鮮独立運動組織をつくった。要するに、李承晩は実際には日本とは一度も戦っていないのである。


朝鮮人が起こした数少ない反日運動の中でも、比較的大きかったと言われているのが、誇大に喧伝される「三・一運動」である。第一次世界大戦末期の大正7年(1918年)1月、米大統領ウッドロウ・ウィルソンにより(白人の仲間内だけの)「十四箇条の平和原則」が発表された。これを受け、民族自決の意識が高まった李光洙ら日本に留学していた朝鮮人学生たちが東京神田のYMCA会館に集まり、「独立宣言書」(二・八宣言)を採択した事が伏線となったとされる。これに呼応した朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教の指導者たち33名(僅か33名?)が、大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀に合わせて行動計画を定めたとされる。「三・一運動」の直接的な契機は高宗の死であった。彼が高齢だったとはいえ、その死は驚きを以って人々に迎えられ、様々な風説が巷間で囁かれた。その風説とは、「息子が日本の皇族と結婚する事に憤慨して高宗自ら服毒した」とか、或いは「併合を自ら願ったという文書をパリ講和会議に提出するよう強いられ、それを峻拒したため毒殺された」などといった根も葉も無いものであった。そうした風説が流れるほど高宗が悲劇の王として民衆から悼まれ、またそれが民族の悲運、朝鮮人特有の自己憐憫と重ねられる事でナショナリズム的な機運が民衆の中に高まって、「三・一運動」の引き金となった。「民族自決」を含む「十四箇条の平和原則」をウィルソンが発表した翌年の1919年に、パリ講和会議の国際連盟委員会に於いて、日本政府が提案した「人種差別撤廃提案」(=民族自決)を否決したのが、誰あろうウィルソンである事を忘れてはならない。


「三・一運動」では、特に人々の記憶に残った女生徒がいる。故郷の天安で独立運動を行ない、逮捕起訴後、懲役7年の有罪判決を受けてソウルの西大門刑務所に収監され、獄中で死去したと伝えられる梨花学堂の学生柳寛順(リュウ・カンジュン、当時17歳)である。彼女は、後に「独立烈士」として顕彰され、韓国ではフランスの国民的英雄ジャンヌ・ダルクに準(なぞら)え「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、現在も韓国々民の尊敬を集めている。実際は、彼女についての記録は殆んど残っておらず、誇張されて伝えられてきたとの指摘もある。これも、朝鮮人特有の自己憐憫と妄想の産物なのである。柳寛順の研究で知られる韓国人 任明淳(ニン・メイジュン)は、「柳寛順の最終刑量は、懲役7年ではなく3年だった」と主張し、「いい加減な言説が広まっており、子供向けの伝記にまで誇張話が掲載されている」と問題視している。韓国の捏造被害の記録は一から十までこの調子である。韓国ソウルのタプコル公演の石碑には、日帝時代の刑死者の名が幾つも刻まれているが、朝鮮総督府による朝鮮人への死刑執行の記録は一切無い。全てが韓国人の勝手な妄想なのである。


日本の尽力により大韓帝國を名乗るも、朝鮮には何も無かった。今の韓国では、例えば「稲作文化を日本に伝えたのは朝鮮」だとか「様々な先進文化や技術を未開の日本に伝えたのは朝鮮だ」と、史実とは正反対の妄想を信じ切って、日本を「韓国の弟分だ」などと尊大になって見下すが、只の不見識どころか、余りの無知蒙昧さに憐憫の情すら禁じ得ない。現在のように南北朝鮮が一人前の国家の顔をしていられるのは、全て、完全に、100%、「日韓併合」という、日本の先人の大失敗の産物なのである。原始生活を送る朝鮮人に文化文明を授けた大恩人こそ日本なのである。朝鮮人ほど歴史を識らず、識る機会を与えられても学ばず、歴史を都合よく捏造して盲信する民族は他に居ない。それは彼等が我々とは異なり「原人の遺伝子」を多く受け継いでいる事と無関係ではないだろう。

20171111『人ならぬ朝鮮民族の排除こそが日本を護る最重要課題』http://the-soliloquy-of-ishikawa-quon.blog.jp/archives/2017-11-11.html を参照されたし)

精神医学で「誇大妄想(megalomania)」という症状があるが、朝鮮民族の多くはこれに罹患(りかん)している。この病は、嘗ては「精神分裂病」と呼ばれていたが、言葉狩りに遭い、今では「統合失調症」と呼ばれているが、「誇大妄想」は「統合失調症」によく見られる症状で、実際、韓国々民全体の実に約40%が「統合失調症」の患者だという統計もある。はっきり言って朝鮮民族には手に負えない気狂いが大勢いるのである。日本人には、この気狂いという言葉に過剰反応して「差別だ、ヘイトだ」と騒ぐ愚は犯して欲しくないものである。とにかく戦後の日本人ほど言葉狩りが善だと勘違いしている国民は世界的に見ても少ないだろう。


私は朝鮮人を誰よりも忌み嫌うが、それは彼等が嘘で日本を貶め続け、敗戦直後の朝鮮半島や日本で、日本人に対して筆舌に尽くし難い鬼畜の蛮行を働きながら、知らぬ顔を決め込み、罪を償おうともしないからだ。実際には期待薄とは思うが、彼等が「日本の先人に感謝し、敗戦直後に犯した罪を認め、心から謝罪する」なら、その気持ちを受け容れるにやぶさかではない。そのような真っ当な人間的な姿勢を示すなら、南北朝鮮の人々や、日本に密航し居座ってしまった在日朝鮮人の子孫との共存を考えてもいい。併し、現実の彼等は日本に強い悪意と筋違いな怨恨感情を持っており、日本人に必要のない謝罪と賠償を求め続けている。これが最後と何回約束しても、有りもしない過去を蒸し返しては、日本人に対して強請(ゆす)り集(たか)りを繰り返す。「戦後教育」しか受けた事がない現在の日本人が、お人好しにも「日韓友好」や「在日朝鮮人との平和共存」を語る姿は、「先人の無念」を無視する、無知では済まされない、誠に情けない姿である。「東京裁判史観」と、「朝鮮民族の対日誣告(ぶこく)行為」による思い込みという呪縛から目を覚まさない限り、日本に明るい未来は訪れない。朝鮮民族に救いは無いだろうが、真実に目覚めさえすれば、日本人は本来の誇り高い国民に再起できるだろう。私の見解に異論のある方は、罵詈雑言ではなく論理を以って反論していただきたい。いつでも論破して差し上げる。


例えば、「稲作の伝播」は、近年の遺伝子研究の発達により、日本から朝鮮半島に伝わった事が明らかになっており、文化文明を日本に伝えたと言う朝鮮通信使についても、相互の情報交換は勿論あったが、上下関係は寧ろ逆で、日本の文物を学びに教えを請いに来ていたというのが実態だった。朝鮮通信使は、「朝鮮聘礼使(ちょうせんへいれいし」或いは、単に「聘礼使」などと称し、『聘礼(=供物を献上する)使(つかい)』と見做されていた。1375年(永和元年)室町幕府の将軍足利義満からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼として「誼(よしみ)」を結ぶ使者として遣わされたのが始まりである。15世紀半ばに途絶えたが、安土桃山時代に李氏朝鮮から秀吉に向けても派遣され、再度途絶え、江戸時代に再開された。「朝鮮通信使」は、広義には江戸時代の「朝鮮聘礼使」を指す。聘礼使の江戸城への入城については、幕府は江戸城裏門からの入城しか許さなかった。「徳川実記」には「(寛永20718日)朝鮮国信使聘礼行はる。よて信使は辰刻本誓寺の旅館を出て、路中音楽を奏し、その国書を先に立て舞う登る。上官は大手門下馬牌の下より馬を下り」などの記録がある。江戸城裏門へ回る際にも、ここで下馬せねばならず、この事をもって大手門からは入場できなかった事が伺える。中華皇帝に対する「朝貢使節」と同様の役割、則ち「徳川将軍の権威の誇示」に利用されていたのである。


事程左様に、朝鮮民族の歴史観というものは、史実とは懸け離れて、自分たちに都合の良いように歪曲され、虚偽で粉飾されている。彼等には、恐らく嘘をついている自覚すらないのだろう。醜い心根で嘘を吐(つ)き続けているうちに、それを真実だと思い込んでしまうのであるから、正に病気である。この日本でも「東京裁判史観」と「戦後教育」という偽りに満ちた教育により、史実を識らない国民が量産されてしまっている。併し、日本人というのは本来まともな国民であるから、真実に気づいている者たちの努力如何によっては未だ未だ再起できる可能性はある。そこが、朝鮮民族とは異なるところだ。朝鮮民族は、敗戦後に南北に分かれて別々の人物が統治しても、結局は醜い民族性を曝け出しているではないか。南も北も、絵に描いたように「日韓併合」を指して、「過酷な植民地支配」とか「言葉を、名を、産業を奪われた」とか言い募ってはカネを集(たか)る。併し、実際は全て嘘、或いは妄想である。前述したように、当時の朝鮮半島に棲む民族には、産業は愚か、67%程度の支配階級が漢文を読み熟(こな)しただけで、庶民は読み書きもできないという100%の文盲で、女性には名すら与えられず、貨幣経済も無く、度量衡すら朝鮮総督府が初めて定めた。日本の善意により併合される前の朝鮮は、迷信が蔓延る酷い差別社会、明日なき奴隷社会で、一部の特権階級を除く庶民は、さながら原始人のような生活から抜け出せないでいた。


当時の朝鮮では、劣悪な石炭とタングステン、朝鮮人参 以外は殆んど何も獲れず、日本が必要としていた原油、鉄鉱石、ボーキサイトなどは全く産出されなかった。わざわざ植民地にして奪うものなど何ひとつ無かったのである。日本国民の血税と、血の滲むような努力の末に獲得した技術をタダで貰って、「漢江の奇跡」などと自国民と国際社会を偽って、自分たちだけで経済発展したような顔をする韓国政府と韓国人は、奪う産業すら無かった朝鮮の惨めな歴史については、何処までも知らない振りを決め込み、屋上屋(おくじょうおく)を架すが如く捏造を積み上げていくのだろう。「日韓併合」当時は、日本の労働力も低賃金で豊富に在ったから、朝鮮人労働者など強制的に日本に連行して来ても使いものにならず、従って強制連行する必要性など皆無であった。庶民層が100%文盲で、栄養状態も劣悪だったから、身体も弱く寿命も当時の日本人よりずっと短かった。強制的に連れて来る価値も無い朝鮮人が、現在も大勢日本に棲みついているのは、「日韓併合」と言う先人の誤ちに付け込んで、勝手に日本に押し掛けて来たからである。その殆んどが密航であった事も指摘せずに、在日特権を与えてしまった戦後日本人の腰抜け振りは目を覆うばかりである。今からでも決して遅くは無い。日本人は本来の日本人に立ち戻る努力を決して諦めてはならない。「日韓併合」当時に活躍した米国の女性詩人、作家のエラ・ホィーラー・ウィルコックスは「抗議すべき時に沈黙を守るは、臆病者の為せる業である」と述べている。戦後の日本人には胸に突き刺さる言葉である。