国家の栄枯盛衰は歴史の必然だが、一時の勢いこそ衰えたとはいえ、ここまで築き上げた一国覇権体制を、米国は中共に譲る意思はない。尤(もっと)も、中共の言い分は、「中共は米国に とって替わろうとしているのではなく、米国と肩を並べようとしているだけだ」というもの。それは、2017年に習近平がトランプとの共同記者発表で「太平洋には中共と米国を受け入れる充分な空間がある」と発言した事に表れている。習近平は翌 2018年に訪中したマティス(当時)米国防長官にも「中米の共通利益は対立点よりも遥かに大きい。広大な太平洋は中米両国やその他の国を受け入れる事ができる」と、「その他の国」との言葉を入れる事で国家的野心を薄めようとしたが、太平洋二分割論への拘(こだわ)りの強さは却(かえ)って中共の野心を際立たせた。中共が太平洋二分割論に初めて言及したのは 13年前の 2007年の事である。中共海軍の高官が、訪中した米軍のキーティング司令官に「中共と米国で太平洋を二分割しよう」という分割案を持ちかけたのであるが、この時は冗談扱いされた。併し、実際には、冗談や一時の思い付きなどではなく、確信犯的な執念の現れであった。だが、仮に米中が肩を並べる事があったとしたら、中共は迷う事なく米国追い落とすだろう。支那人には、そういう思考本能が骨の髄に染み付いている。米大統領がオバマまでの時代は、「市場経済が進んで豊かになれば、中共も民主化するだろう」という楽観論が支配的であった。そのオバマ時代の無策が、南支那海の軍事拠点化という、世界常識を覆す暴挙を誘発してしまった。領土領海の分捕り合戦は、既成事実化した者勝ちであるから、中共に南支那海を手放す意思はない。中共が存在する限り、危険な海域であり続ける。
本来なら、建国とほぼ同時期に人民解放軍が、チベット、東トルキスタン(ウイグル)、南モンゴルへの侵略を断行した段階で、米国には中共との共存の道などなかった。併し、米国は日本だけを敵視し、凡(あら)ゆる手を尽くして「大東亜戦争」に引き摺り込み、無辜の民に対する絨毯爆撃を約2,000回も繰り返し、勝利を確信して尚、2種類の原子爆弾の実験投下をして、勝者のリンチでしかない「極東国際軍事裁判」と、実際の戦闘期間の約二倍もの長きに亘る「洗脳統治」により、再興不能なまでに日本人の精神性を破壊し、社会制度を米国に都合の良いように変えてしまった正に国家改造である。日本を力尽くで屈従させる一方で、米国は何故か支那にだけは肩入れし続けた。昔から米国人は支那に対するロマンみたいなものを持っているような気がする。米国が日本を殊更(ことさら)敵愾視(てきがいし)した理由は二つある。一つ目は、仮締結した南満洲鉄道経営に関する「桂・ハリマン協定」(1905年・明治38年)を小村寿太郎の意見を受け容れて、桂太郎が一方的に解消してしまった事が、米国の世界戦略から外れていた事である。ハリマンはWASP(White Anglo-Saxon Protestant)ではあるが、ウォール街の本流ではなく、傍流、謂わば成り上がり者であった。小村寿太郎は、そんな傍流よりもウォール街の主流派であるモルガンなどからの資金調達を纏(まと)めてきた。だが、「日露戦争」の戦費調達には、ウォール街のヤコブ・シフの貢献が大きかったと言われているが、シフと共に日本の戦費調達に貢献したのが、実は鉄道王ハリマンだった。桂太郎はハリマンには大きな借りを感じていたから、満鉄利権を半分とは言わないまでも、幾分かは分け与えても良いと考えた。後述するが、「日露戦争」は米国の代理戦争のようなものであった。併し、日本はそのような裏で進められた工作を知る由もないから、日本人はヤコブ・シフらに大いに感謝していた。そういった負債感情があったからこそ、内閣総理大臣 桂太郎はハリマンとの仮条約を締結したのだが、小村寿太郎はこの仮条約に大反対した。

ウォール街の本流であるモルガンからの資金調達を纏(まと)めた小村寿太郎にしてみれば、ハリマンとの仮契約反故(ほご)は当たり前である。併し、「金は借りたが恩には報いない」では、ハリマンの気持ちは収まらない。恩を仇で返されたと感じたハリマンが日本を怨んだとしても尤(もっと)もであった。故 渡部昇一は、小村寿太郎以降の世代には「清濁併せ飲む度量」が欠落していたと指摘していた。この件について渡部昇一を批判する若い歴史家もいるが、それは渡部昇一の没後に始めた批判である。現在の知識、常識による過去に対する批判になど、如何なる正当性もない。内閣総理大臣 桂太郎は一度 政治的決断をした上で、小村寿太郎の大反対に遭って翻意し、外国資本の参入を取りやめた。仮契約として覚書まで取り交わした相手に、面会も謝罪もせず、電報一本で契約破棄を通告したのである。日露戦争で多大な犠牲を払った日本としては、敗戦すれすれの際どい勝利の結果、ようやく手に入れる事ができた南満洲鉄道の権益を、米国に分け与えるなどという事は、国民感情からしてできなかった状況だったのも事実。だからハリマンとの仮締結の撤回を主張する小村の前に、桂は引き下がるしかなかった。桂太郎は国益を最優先したつもりが、実は国益を損なってしまった。傍流とは言え、ウォール街の大物から怒りを買ったのは確かである。つくらなくても良い敵を米国内につくってしまった政治的決断は失敗以外の何ものでもない。ハリマンならずとも、米国の思惑通り「日露開戦」に至った日本から、満洲に関する僅かな利権配分すら拒絶された事実は、恐らく許し難いものだったであろう

ハリマンに宿った反日感情の如何に関わらず、米国の主流であるWASPたちには、元々根強い人種的偏見があった事は確かである。そもそも、日本が日露戦争の戦費調達に成功する前から、米英仏蘭などの白人列強国家は、日本人を仲間だと受け容れていたかどうか甚だ疑わしい。前以(まえもっ)て日露講和の仲介を依頼しておいたセオドア・ルーズベルト米大統領は、約束通り仲介の労をとってくれはしたが、優勢のうちに講和に臨んだ日本に、1mmたりともロシア帝国の領土割譲を許さなかったし、事実上の敗戦国ロシア帝国からの対日賠償金も鐚一文(びたいちもん)受け取らせなかった。ポーツマス条約(1905年・明治38年)では、何故か、東清鉄道の南満洲支線、長春〜大連間の鉄道施設と附属地のみが日本に譲渡された。当時としては有り得ないような日本側に不利な講和条件を T・ルーズベルトが勝手に纏(まと)めてしまったのである。不利な条件を跳ね除ける余力は日本には残っていない事を T・ルーズベルトは見透かしていた。後に朝鮮半島を日本に押し付けて早々に半島から手を引いたのも T・ルーズベルトだから、元々日本を快く思ってはいなかったようだ。今に伝わる、数々の発言録からも非白人国家 日本への見下しが窺える。当時も今も、白人の共通認識として、非白人への差別意識があったのは否定できない。米国はロシア帝国が東方政策(ウラジオストック=東方を侵略せよ、という意味)を、南下政策に転じるのを警戒していたから、そのロシア帝国の拡張政策を止めたのは良しとしても、同じ白人の大国ロシア帝国を「黄色い猿」が打ち負かしたとなれば、どうにも気に入らなかったのだろう。

米国は、海軍兵学校のアルフレッド・マハン校長が著した兵学書「シーパワー(海上権力論)」に沿って、太平洋戦略と対ロシア極東戦略、朝鮮半島戦略を進めていた。1898年4月20日、米西戦争が勃発するも同年12月にはパリで講和。スペインは、フィリピン、プエルトリコ、グアムを米国に割譲させられた。1904年2月、「日露戦争」が勃発すると、その年の7月には、タフト米国務長官(後の大統領)が、日本の桂太郎首相との間で秘密裡に協定を結ぶ。その内容は「米国がフィリピンを占領、支配する代わりに、米国は日本が朝鮮半島を支配する事を認める」というものであった。日露戦争は米国ウォール街の金融資本家から戦費を調達して臨んだ日本とロシアの戦争であるが、実はロシアと清国は「露清密約」を結んでおり、連合軍として日本と戦ったのであるが、この事実は日本人には全く教えられていない。日露講和の調停役を務めた T・ルーズベルトも当然このことは承知していた。この事実を知っていれば、日本は清国に賠償を要求した筈であるT・ルーズベルト米大統領は、このころ「満州国に新国家建設」(ユダヤ人国家建設)を構想していたという米国は米西戦争で手一杯だから、日本にロシアの極東戦略・朝鮮半島侵略計画を阻止させ、そのまま厄介者である朝鮮を日本に押し付けた。その為に日露戦争の戦費調達をユダヤ系米国人ヤコブ・シフが引き受けたのである。T・ルーズベルトとヤコブ・シフは当然 繋がっていた。この一事でも分かるとおり、満洲国建国(1932年3月1日)を巡って、日本が国際連盟脱退に至る歴史は、今や通説となっている「日本の侵略性」などではなく、清国利権を狙う米国を始めとした欧米列強諸国の謀略であり、非白人国家日本に対する国際的な苛めだったのである

「日韓併合」には、T・ルーズベルトの謀略が明確に働いていた「日露戦争」が終わった後に、真っ先に米国がとった行動は、朝鮮にある在外公館の引き揚げだった。ルーズベルトは「もはや朝鮮は国の体を成していない」という発言を遺している。 『セオドア・ルーズベルトと韓国』(長田彰文)に、「私は日本が韓国を手に入れるところが見たい。日本はロシアに対する歯止めの役割を果たす事になる」と T・ルーズベルトが発言したとある。 彼はまた、常々「日本は仮想敵国だ」と公言していたともいう。そういう男が、そもそも日本に有利な講和条約を纏めてくれる筈がない。 彼は「日韓併合」への道筋を付けるに当たって、「この一番処理の難しく、一番タチの悪い朝鮮という国を日本に押し付けてしまえば、日本は混乱に陥るだろう」という悪意ある発言もしている日露戦争終結と同時に、間合いを測ったかのように朝鮮半島から手を引いた在朝鮮米国公館は、「行かないでくれ」と泣いて縋(すが)る朝鮮人に対し、「お前の国は留まるに相応しくない。これからは日本を頼れ」と捨て台詞を浴びせて朝鮮半島から出て行ったという。「日韓併合」への道は米国の対日戦略の一環であり、この段階で歴史は、米国が描いた通りの規定路線を進み始めたのである日本が韓国を併合せざるを得なくなるように画策したと考えると、米国という国の権謀術数の深さが良く分かる。米国人と支那人が馬が合うのは、こういう戦略的狡猾さという共通点があるからだろう。我々日本人には欠けている部分である。人の好すぎる日本人は、笑顔とは裏腹に、騙し騙される外交の熾烈さを知らない。黒船の砲艦外交により国際社会にデビューせざるを得なかった日本は、他国が目を見張るような長足の進歩を遂げ、僅か数十年のうちに欧米列強諸国に伍する国となりはしたが、白人諸国は日本人を友邦として大歓迎した訳ではない。人種的偏見の壁はその後100年を経ても未だ存在し続けている。

そういうバックグラウンドが厳然と聳(そび)え立つ白人主導の世界秩序にとっては、予期せぬ新参者で、永遠なるよそ者であった大日本帝国に、例の「人種差別撤廃提案」を公式の場で発議された。白人列強諸国は世界各地に張り巡らされた「植民地」からの収奪により成り立っていた。当時の白人社会の常識では、「人種差別撤廃提案」などに賛成できる訳がない。これが二つ目の要因。満洲利権への米国の介入を拒絶した一件と、小生意気な有色人種の新興国家でしかない大日本帝国による白人列強諸国に対する唐突な「人種差別反対提案」。このふたつこそ日本が米国を始めとした白人諸国を敵に回した要因だった。ハリマンの不満は単なる商売上の損得ではあるが、当時も今も傍流とは言え、ウォール街の不興を買う事は命取りに繋がる。何よりも米国が画策して敷いた路線を、米国の思惑通りに進もうとしない日本に、米国は怒りを募らせていた。更に、当時は当然視されていた白人の優越性を否定して、俺たち有色人種も平等に処遇しろなどという日本人の理屈は、正に神のご意志に逆らう暴論と受け取られた。「人種差別撤廃提案」など受け容れたら、世界各地の植民地経営はたちまち破綻してしまう。ハリマンの要求を受け容れて、満鉄の権益を分け与えておけば良かった、という論者もいるが、仮にそうしたとしても、日本は「人種差別反対」の意思は譲れなかったし、譲るべきでもなかったから、米国による手酷い仕打ちである「大東亜戦争」開戦への、狡猾かつ執拗な追い詰め政策を躱(かわ)し切る事は日本にはできなかっただろう。併し、「人種差別撤廃提案」は断じて日本の過ちではなかった。こういう史実を日本人は「先人の誇りある行動」として国民に教育し、後々まで受け継いでいくべきである
「大東亜戦争」の呼称を禁じられ、聞き慣れぬ「太平洋戦争」とされた上に、「侵略戦争」だったなどと再教育された日本人は、敗戦後 75年を経た今も、過ちと歪曲、捏造に満ちた「東京裁判史観」に穢(けが)された歪(いびつ)で悍(おぞま)しい自虐教育を続けている日本の中学生の教科書には「日本は朝鮮半島を武力で植民地支配しました」などと堂々とが書かれており、殆んど総ての教諭もその嘘を疑う事なく、日本の未来を担う子供たちに「東京裁判史観」という「自虐史観」を植え付けている。何も先人が一切の過ちも犯さなかったなどと言い張るつもりはないが、連合国(戦勝国)の主張だけが100%正しかったという事などある訳がない。サンフランシスコ講和条約調印後も、事実上の日本の独立を阻(はば)み続けてきた米国が遺し育ててきた「東京裁判史観」は捏造史観である。況してや特亜三国による史実を無視した主張になど一厘一毛の正統性すら無い。日本には日本の言い分があったし、その大筋の正しさは、日本の敗戦後、数年を経ずして、白人列強諸国が世界に所有していた「植民地」が、次々と独立していった事実からも容易に理解できよう。このように「大東亜戦争」にはれっきとした正統性があったのだが、敗戦後は日本だけが「正義」を「自虐史観」にすり替えられ、史実から乖離(かいり)させられ続けてきたのである。史実とは、白人が自らを利する為につくり上げた虚構ではなく、次々と独立を果たした国々の常識に基づく歴史であり、これこそが人種差別を許さない正当な価値観である

現在の米国社会では、黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴える、積極行動主義の運動「ブラック・ライヴズ・マター」(Black Lives Matter、略称BLM)が益々勢いを増している。「BLM」は、その正当性には共感できるが、ややもすると極端に走る嫌いはある。理性ある白人は表立って「BLM」に反対できないでいる。ニューヨークの米国自然史博物館の T・ルーズベルト像は、人種差別、植民地主義の正当化に繋がるとして以前から批判されてきたが、「BLM」運動が高めた機運は、この第26代米国大統領像の撤去決定に繋がった101年前に日本が発議した「人種差別撤廃提案」を、米大統領ウッドロー・ウィルソンが議長採決で否決したのは、世界各地に拡がった白人による「植民地主義」を護ろうとの意思の表れであった。併し、日本の「人種差別撤廃」の理念は、長い時を掛けて人種差別是正に貢献してきたのである。日本に遅れる事 101年、今頃、米国社会で「BLM」運動が拡まり世界の注目を集めている。こういった米国社会の変化を、日本人は日本人の視点で、見直す必要がある。真っ当な国であれば、今や嘗ての大日本帝国の主張や成果を表立って否定できはしない。国際社会に於ける日本国の立場と、日本国民の歴史観、国家間が、未だに米国の保護国、属国の立場から抜けきれていない現実は厳然として存在するものの、米国社会の変化を、日本国民は我が先人の行動には一定の理があった何よりの成果と気付かせてくれる契機と捉えるべきである。それが日本人の精神性を拘束している「東京裁判史観」からの脱却の端緒となるだろう

『アジアに生きる大東亜戦争』(展転社)には、次のような一節がある。
【大東亜戦争前夜、亜細亜全域は欧米列強の植民地であり、独立国は日本とタイだけだった。欧米列強の侵略を阻止・追放するには日本とタイが共闘する事が不可欠であり、つまり日タイ同盟は「最後の防波堤」だったのである。タイは同盟締結前から日本を支持してきた。満州国をいち早く承認し、満州国をめぐる問題についてリットン調査団が提出した報告書の同意確認でも、42箇国が賛成したなかで棄権票を投じている。またタイは、日本がABCD包囲網で兵糧攻めに遭っていた時、生ゴムと綿を日本に供給した。この決断をしたのが当時のピブン首相だった。同盟が締結されるや、ピブン首相は中国国民党の蒋介石に対して「同じ亜細亜人として日本と和を結び、米英の帝国主義的植民地政策を駆逐すべきである」という勧告の電報を打っている。】
…こういう逸話にケチを付けて、「大東亜戦争」が亜細亜を始めとした世界中に拡がる白人による植民地支配からの独立を促した、という史実を否定しようとする「自称良識派知識人」なる一派が日本に存在するのは、極めて恥ずべき事である。彼等こそ、忌まわしき「東京裁判史観」からの脱却を阻む偽善者である。
【日本のお蔭で、亜細亜の諸国は全て独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南亜細亜の諸国民が、米国や英国と対等に話ができるのは、一体だれのお蔭であるのか。それは『身を殺して仁を成した』日本というお母さんがあった為である。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意をされた日である】
このククリット・プラモード(タイ元首相)の言葉を、「論座」や「朝日新聞」などは否定しようと躍起になっている。重箱の隅を突けば粗も発見できようが、歴史の流れを虚心坦懐になって素直に見詰めれば、真実は自ずと見えてくる。真実が気に入らないのは、己れの心が穢れているからである。

特亜三箇国(中共、南北朝鮮)は、日本人が「東京裁判史観」の呪縛から未だに抜け切っていないところこそが日本の弱みであると早くから見抜いていた。要求もしてないのに謝罪する日本政府に対して、中共政府の毛沢東と周恩来は「謝る必要は無い」という姿勢で一貫していた。1956年、元陸軍中将の遠藤三郎との会談で、毛沢東は「あなたたち(日本皇軍)は我々の教師だ。我々は貴方たちに感謝しなければならない。貴方たちがこの戦争で、中国国民を教育してくれ、撒かれた沙(いさご・すな=砂)のような中国国民を団結させる事ができた。だから、我々は貴方たちに感謝しなければならない」と話した。
(『大外交家周恩来(上)』王俊彦)
1961年1月24日、毛沢東は日本社会党所属国会議員の黒田寿男と会見した。毛は1956年に日本の日中輸出入組合理事長の南郷三郎との会談に触れて、「日本の南郷三郎は私と顔を合わせた途端、『日本が中国を侵略したので、お詫びを申し上げなければならない』と話したが、併し、私は彼に、『我々はそうは思わない。日本の軍閥が過去に於いて中国の大半の土地を占領した。この為、中国国民は教育を受ける事ができた。そうでなければ…我々は今まだ山の中にいて、北京で京劇を見る事さえできなかった。…だから日本の資本壟断(しほんろうだん=資本独占)と軍閥は我々に好い事をした。感謝が必要であれば、寧ろ我々が日本軍閥に感謝しなければならない』と答えた」と話した。
(『毛沢東文集第8巻』中国共産党中央文献研究室編)

天安門事件後に国家主席となった江沢民が、1994年に「愛国主義教育実施要項」(反日教育)を始めたのは、ソ連・東欧圏の崩壊で、中共人民が共産主義に疑問を抱き始めたからである。天安門事件の報道でピュリツァー賞を受賞したNYタイムズのニコラス・クリストフ記者は、江沢民政権が始めた「反日教育」の異常性を指摘したジャーナリストである。彼は国家主席に就任した江沢民は、「日本に対する憎しみを掻き立てる事をやめなければならない」と批判した。米国人ジャーナリストが江沢民の「反日教育」に対して明確にその異常性を指摘しているにも関わらず、日本政府、外務省、財界人、マスメディアは、それについては等しく沈黙を守り、江沢民に進んで謝罪した。この日本の姿勢は特亜三国に於ける「反日教育」と「政治的反日主義」を勢い付けた。非難されても決して反論しない日本政府に対しては、反日の火種は捏造し放題であった鄧小平が始めた資本主義経済への移行は、必然的に共産党の統制力を弱めていく。統制力を再び引き締め、高める為には毛沢東が始めたような「政治思想工作」がもう一度必要であった。併し、資本主義経済を取り入れ始めた党指導部が「階級苦」を教える訳にはいかない。中国共産党は「階級闘争」に勝利をおさめたからこそ存在する。今更「階級苦」を主張しては辻褄が合わない。そこで考え出されたのが「民族苦」の教育である。「民族苦」の強調こそが、江沢民の「愛国主義教育実施要項」であり、その唯一最大の標的が日本であった人民に日本を憎悪させる新たな人民洗脳教育が、中共政府の正統性を堅持し続ける為の基本政策となった


犯してもいない罪を非難されれば、普通は反論する。併し、「東京裁判史観」により「偽りの贖罪意識」を刷り込まれた日本人は、一切反論する事なく、寧ろ日本国内から反日主義的日本人により思いがけぬ反日の火種が提供され続けている。先に挙げた「論座」や「朝日新聞」、そして「NHK」などが反日勢力を代弁するメディアとなって、日本を追い込むという倒錯を続けているのである。「検閲」「発行禁止」「放送禁止」を恐れて、GHQ/SCAPに嫌々従っていた日本のメディアは、GHQ/SCAPが居なくなった後も自己検閲を続けるうちに、知らぬ間に自己検閲を善良の証と倒錯するようになった。「東京裁判」という洗脳工作が、日本人と日本社会に及ぼした深傷(ふかで)は予想以上に深刻なものであった。教職追放令、公職追放令や在日朝鮮人に対する特別優遇策などを遺していったGHQ/SCAPによる「日本弱体工作」に、日本人は見事なまでに洗脳され尽くし、未だ正気を取り戻せないでいる政界、財界、教育界、法曹界、マスメディア界、金融界、等々の日本の枢要な業界は、悉(ことごと)く尋常ならざる負のスパイラルに自ら嵌(はま)り込んで、日本の国家構造・社会構造およびあらゆる価値観を歪めてしまっている。日本人が誇りある国民として、自ら陥っている異常な価値観を改めて、堂々と未来に歩み出すためには、「東京裁判史観」からの脱却こそ、避けて通ってはいけない問題である。