このブログを書き始めたのは、Facebook、TwitterなどのSNSに於いて、日本人なら当然、知っておくべき真実の数々を発信すると、それを「差別的」という不可解かつ一方的理由で、何十回となく削除されてしまった経験があるからである。Facebookでは30回以上も削除要求され、その要求に従わない限り、凍結されたアカウントは復旧されない。自分の信念に基づく投稿を自分の手で削除せよという不当な要求を受け容れない限り、SNSに於ける居場所を奪われてしまうのである。SNS運営会社側の「検閲」は徹底しており、直近の投稿文に限らず、何年も過去に遡っての「検閲」さえ行なわれた。「差別主義反対」や「ヘイトスピーチ反対」については、額面通りの主張であれば本来なら当然肯定されるべきものであり、世界的風潮でもあるが、どこか偽善的な臭いがしないでもない日本に於いては、安倍政権が2016年6月3日に公布した、所謂「ヘイトスピーチ対処法」(正式名称、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取り組みの推進に関する法律」)が、それに当たると考えられているが、実際は世界的な、特に白人社会に於ける「非白人に対する差別を禁じる法律」と、日本の所謂「ヘイトスピーチ対処法」は全く別次元のものである。差別意識が一切無い社会など有り得ないが、日本に於いては白人社会特有の人種差別は元々存在しない。差別の無いところに差別されたと被害捏造する者が現れ、「被害者という有利な立場」に立つ事で、自らの罪過を誤魔化し、加害者に仕立てた日本人より優位な境遇を得て、日本人を貶めるという悪意をもって勝手に騒いでいるだけである。そういう被害捏造に対する反論を封殺する行為を助長するのが、所謂「ヘイトスピーチ対処法」であり、この「悪法」が今やSNS運営会社側の「錦の御旗」となっているのである。また、この悪法を支えているのが日本人の偽善でもある事に目を向ける必要がある

「本邦外出身者」には含まれない「本邦出身者」、つまり日本人の言論の自由は毀損してもお咎め無しという意味で、所謂「ヘイトスピーチ対処法」は、捏造被害により貶められた日本人救済を放棄した、余りにも偏向著しい「悪法」である。実際、日本人がどれほど嘘で貶められようと、反論された外国人が「差別的言動だ」と感じたと言いつのれば、筋の通った反論でも「差別的言動」だと非難され、公開を禁じられたり、訂正や撤回を迫られてしまう。欧米に於ける「肌の色の違いに対する差別」(人種差別)は、人道的に許されるべきものではないが、日本に於いて「差別」と括(くく)られるものの中には、そういった「人道に悖(もと)る差別」とは全く異なる「理に適った反論」や、「当然の区別」が一緒くたにされてしまっている本来「差別」ではない「正当な反論」を封殺する為に「差別」という言葉が頻繁に悪用されているのである。「日本人社会に差別意識は皆無である」などと言うつもりはない。現代の日本社会では「人種差別とか民族差別と言うレッテル貼り」が横行して、本来 認められるべき正当な言論まで封殺されてしまうのが常態化しており、その常態化が「被害者詐欺」をして不当な利益を享受する一団を熨(の)さ張らせてしまっているのである。不当な汚名を着せられた本当の被害者である先人や今を生きる日本人は永遠に救済されない仕組みが出来上がってしまっているのである

一般に「言論の自由」が保障されていると思い込まされている「大東亜戦争」敗戦後の日本に於いては、現在に至るも様々な言論弾圧の横行が当然視されている。そもそも、「第二次世界大戦」の一部と言われる「太平洋戦争」は、日本が国会決議で決定した「大東亜戦争」という正式呼称を、敗戦後に乗り込んできた「連合国軍最高司令官総司令部」(GHQ/SCAP)が、日本人から戦争の正当性を奪う為に、戦後に考案して敗戦国日本に強要した呼称である。だから「戦後教育」では、「大東亜戦争」という呼称は一切消し去られており、その呼称がまるで軍国主義を呼び醒ます忌むべき呼称であるかのように「太平洋戦争」という呼称で上書きされてしまっている。戦後の日本人は、無理やり押し付けられた所謂「戦後教育」を信じ切って、「太平洋戦争」という呼称を何の違和感もなく遣っている。敗戦国日本は1945年7月26日に「ポツダム宣言」への署名を余儀なくされたが、その「ポツダム宣言」を構成する13項目の10番目の項目には、「言論、宗教及び思想の自由、並びに基本的人権の尊重は、確立せらるべし」と明記されている。併し、その「ポツダム宣言」に基づいて日本を占領統治したGHQ/SCAPは、日本人が建国の神話を語り継ぐ事を禁じ、GHQ/SCAPが望まぬ思想を禁じ言論の自由を奪い禁書を指定し、果ては「焚書」(ふんしょ=書籍を燃やして処分してしまう事)までして退けた。「ポツダム宣言」に基づくと言いながら、GHQ/SCAPは、新聞や書籍などの出版物やラジオ放送、集会に於ける演説から、個人が交わす私信(手紙や葉書)に至るまで、徹底した「検閲」を強行した。そして、それらの検閲が実施された事実を語る事を禁じて、「自分たちは言論の自由を侵害していない」という虚構を日本国民に徹底的に信じ混ませたその上で、「世界侵略を企図した軍国主義の指導者を裁いて、奴隷化された日本国民にGHQ/SCAPが自由を与えた」という嘘の筋書きを凡ゆる手段を講じて後々まで信じ込むように工作を済ませていった。実際の戦闘期間の約2倍もの期間をかけた占領期間は、洗脳工作期間であり、文字通りの「洗脳統治」であった。

その嘘に騙されて「今日から基本的人権が守られる自由な社会になった!」「民主主義万歳!」などと喜んだ日本国民が少なからず居た事実は、誠に恥ずべき事である。如何に狡猾巧妙な洗脳統治だったとは言え、「極東国際軍事裁判」(所謂「東京裁判」)という「勝者のリンチ」という茶番を見せられ、強硬な「言論統制」を敷かれ、不本意な戦争で「肉親や大切な人の命を失ない」、非人道的な「絨毯爆撃」を受け、日本の敗戦が不可避と判明した後に、広島、長崎に「2種類の異なる原子爆弾を実験投下」され、GHQ/SCAPの汚い悪巧みにより昨日まで共に戦って共に敗れた「朝鮮人が獣のように日本人に牙を剝くのを利用」する為に彼等の嘘と凶悪犯罪は見逃され、「朝鮮人が略奪、暴行、強姦の限りを尽くすのを碌(ろく)に取り締まりもしなかった米軍憲兵の姿を自分の目で見ながら」、よくも「自由で民主的な社会」が訪れたなどと喜べたものである日本人というのは元来優れた国民であると日本人自身は考えているが、他国に比して非常に優れた部分を持ちながらも、それを活かす精神性は極めて脆弱で、臆病で、裏切り者の気質、という大きな欠点を持っていると認めざるを得ない。1945年(昭和20年)11月の「教職追放令」に続き、46年1月に行なわれた「公職追放令」(軍国主義者・国家主義者の公職からの追放)の影響は計り知れないが、この時期に溢れ出た日本人の負の側面は、「精神的迷走」と言ったほうがいいかも知れない。戦争という高揚期を経て、敗戦の気配に気づき始め、被占領という民族史上初めて体験する惨(みじ)め極まりない不安と絶望、自己決定が許されない焦燥状態が、日本人が本来的に身に付けていた「誇り」や「自尊心」を奪ってしまった。山高ければ谷深し。敗戦の衝撃と被占領という絶望に、朝鮮人の先祖返り的豹変という、何れも対処不能な不幸が、日本人の精神性を徹底的に蝕(むしば)んでしまったのである

その言語に絶する衝撃が、以後、ずっと癒えない深傷(ふかで)となって日本人を駄目にし続けた。「公職追放令」が解かれた後も、穴を埋めた反日左翼を居座り続けさせ、検閲の主体であるGHQ/SCAPが日本を去った後も、自らの意思で「自主検閲」を続けた。原始人同然の生活をしていた朝鮮人に文字(ハングル)を教え、凡ゆる文明を授けたのが日本人であった事実も忘れて、GHQ/SCAPの威を借りて戦勝国民だと僭称する朝鮮人の凶行を、事後に裁く事が可能になっても不問に付し、疎開で空き家にしていた土地家屋を朝鮮人に奪われ、駅前一等地に居座られても泣き寝入りしてしまった。日本国内に朝鮮人が勝手に棲み付くのに文句のひとつも言えず、「特別永住権」まで与える始末である反日左翼日本人や在日朝鮮人には、「教職・公職追放令」が解かれた後も枢要な職域に居座り続けさせもした。「日本軍に強制連行されてきた」と言いながら帰国を拒否し、「日本人に名を奪われた」と言いながら通名を名乗り続けるという、朝鮮人の見え透いた嘘も論破できずに、日本に於ける彼等の地位を不動のものとしてしまったのも、日本人の事勿れ主義、臆病ゆえである敗戦直後の衝撃と被占領国民となった絶望感によって克服できなかった「悪弊」が、現在に至るまで続いているのは、誰のせいでもない、私たち日本人の事勿れ主義、臆病による諦観のせいである。敗戦直後の私たちの祖父母たちにとっては、「誇りや面子などの綺麗事に拘っていては飢死してしまうから、あの時代は生きるだけで精一杯だった」というのは誰も否定できない事実である。実際そういう状況だった事は想像に難くないし、あの時代は精一杯生き抜く以外は何もできなかったのは真実であっただろう。問題は、生き抜いた後の「世の処し方」である。世の中、社会構造がおかしい、間違っている、と気がついたのは、何も今になっての事ではないだろう。敗戦直後を生き抜いた当時の現役世代や当時は子供だった世代が、精神的深傷を負って本来の日本を容易に取り戻せなかったとしても決して責められはしないが、その後の世代、先人の献身や苦労も知らない戦後世代が、悪意ある「戦後教育」を盲信して、日本国民としての義務を怠り、「自由だ、人権だ」と喜ぶ姿は単なる愚民の成れの果てでしかない

例外はあるものの、総じて今の日本人は、学校で真実を教えず、教えられず、体験者が語り継ぐ事もしてこなかった。努力した方々も居られたが、残念ながらそういった方々は少数派でしかなかった。だから「東京裁判」が国際法を無視した「勝者のリンチ」であった事も、「戦後の朝鮮人の恩知らずな鬼畜の蛮行の数々」も、B29爆撃機による「絨毯爆撃の非人道性」も、今の日本人は殆んど何も知らないし、自ら学んで知ろうともしない「絨毯爆撃」とは、爆撃の標的を軍人や軍施設に限らず、寧ろわざわざ無辜の民を大量焼殺する為に、民間人を予め逃げられないように先ず四辺を爆撃し、広大な地域を火事で四角く囲ってから、その中をじっくりと宛(さなが)ら絨毯を敷くように焼夷弾で焼き尽くすという、日本人大量焼殺に特化した爆撃方法である。「焼夷弾」とは、木と紙でできた日本家屋専用に開発された「ガソリン爆弾」である。爆撃とは、元々その目的が人殺しであるから、その行為に人道も非人道もないと考える者もいるかも知れない。併し、米軍が日本本土で行なった「絨毯爆撃」とは、意図的に無辜の民(病人、老人、女性、子供)を狙った爆撃であり、予め逃げ道を塞いだ上での大量焼殺である。これを非人道と言わずして何を非人道と言うのか日本国民は絨毯爆撃を約2,000回も受けているこの爆撃を指揮したカーティス・ルメイ米空軍少将(後に大将に昇進)は、「もし我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう」と述懐している。このように、犯行当時は判断力も責任能力も充分に備えながら、敢えて平然と「絨毯爆撃」「原子爆弾の実験投下」を指揮した、そのルメイに「航空自衛隊の育成ならびに日米両国の親善関係に終始献身的な労力と積極的な熱意とをもって尽力した」として、日本政府は、1964年に勲一等旭日大綬章を授与している日本とは、どこまで卑屈な国に成り下がってしまったのであろうか!

「大東亜戦争」は、始めから白人による「人種差別」に基づく大量殺戮を目的として周到に計画された、米国が始めた戦争であった。開戦早々に、米国内では日系人が12万人以上も強制連行され、全財産を没収された。その70%が米国生まれの二世で米国籍保持者で、残り30%の一世も20年、30年、40年と米国で暮らして永住権を持っていた。米大統領フランクリン・ルーズベルトは、あの身も蓋もない「ハル・ノート」を突き付けられた日本が「真珠湾攻撃」を敢行する 5年も前の1936年に、ハワイの日系人を強制収容する計画を検討していた。初の大西洋単独無着陸飛行に成功した米国人パイロット、チャールズ・リンドバーグは自らの著書『リンドバーグ第二次大戦日記』に、「我が軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺する事しか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。我々は文明の為に戦っているのだと主張されている。ところが南太平洋に於ける戦争をこの目で見れば見るほど、我々には文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う」と記し、米兵が日本兵の遺体から金歯を盗んだり、耳や鼻、更には頭部をドラムカンで煮詰めて肉をこそげ落としてつくった頭蓋骨を土産(みやげ)として持ち帰ったと証言している。日本兵の遺体の一部を戦果の土産として持ち帰る行為は広く行なわれていた。西部劇ではアメリカ・インディアンが白人の頭の皮を剥いだように描かれているが、実際はその逆で、白人がインディアンの頭の皮を剥いでいた。インディアンの頭の皮は米国政府が高額で買い取り、あのリンカーン大統領の署名つきの「頭の皮の買い取り証書」が今も保管されている

米国の雑誌「LIFE」の1944年5月22日号には、若い白人女性が出兵したボーイフレンドから送られてきた日本兵の頭蓋骨をうっとり見つめている写真が掲載されている反日で知られる米歴史学者ジョン・ダワーでさえ、「もし歯や耳や頭皮が独・伊の兵士から収集され、それが英米の国内で報道されたら、騒然たる状況を引き起こしたに違いない」と指摘している。F・ルーズベルトは、「日本人は頭蓋骨の発達が白人より2,000年遅れているから邪悪なのだ」と大真面目に信じていたという。また、海軍提督ウィリアム・ハルゼーは「日本人は雌猿どもと、慈悲深い皇帝によって支那から追放された罪人たちとの交尾による産物である」と信じていた部下に対して「下等な猿ども」をもっと殺して「猿肉」を沢山つくれと奨励した。彼はまた、米国がインディアンを虐殺していた当時の軍人フィリップ・シェリダンの有名な暴言「良いインディアンとは、死んだインディアン」を捩(もじ)って、「良いジャップは死んだジャップ」とも公言していた「大東亜戦争」とは、白人国家米国に根差す「人種差別」が根底に流れる戦争だったのである。ルーズベルトに話を戻すが、ルーズベルトは「米国の若者を戦地に送るような事は絶対にしない」と言う公約で米国大統領に再選されていた。併し、対独戦で劣勢に立たされていた盟友チャーチルの度重なる参戦要請に応える為に、対日戦争を皮切りに英独戦争に参戦しようと日本に喧嘩を売ったのである。ルーズベルトにとって日本とはその程度の存在でしかなかった。米エール大図書館所蔵のスチムソン米陸軍長官日記には、1941年11月25日、ルーズベルトが軍事会議で「米国は来週月曜日(12月1日)にも攻撃を受ける可能性がある」と注意を促し、問題は「我々自身が過大な危険に晒される事なしに、日本に最初の一発を撃たせるような立場に如何に誘導して行くかだ」と発言したと記されている日本が対米戦を望んだのではなく、ルーズベルトの米国が日本を「大東亜戦争」に引き摺り込んだのである。

「戦後教育」を盲信する日本人の多くは、軍国主義国家 日本が白人の大国 ロシア帝国を倒し、支那大陸、朝鮮半島を侵略し、東南亜細亜諸国を侵略して、更に世界に侵略の魔手を伸ばそうと「真珠湾攻撃」に踏み切ったから、無謀極まる所謂「太平洋戦争」(正しくは、大東亜戦争)開戦に至ったのだと思い込まされている。併し、「真珠湾攻撃」が宣戦布告無き卑劣な奇襲攻撃だったなどと言うのは大嘘であり、ドイツ帝国に蹂躙されそうな英国を助ける為に、国民との公約上、米国から戦争を仕掛ける事ができない立場のルーズベルトが、欧州戦線(対独戦)に参戦する為の捨て駒にされたのが日本だったのである「大東亜戦争」当時、米NY州出身の下院議員(元軍人)だったハミルトン・フィッシュ3世は、著書『ルーズベルトの開戦責任』で、以下のように述べている。

『天皇および近衛首相は、平和を維持する為に信じられないほどの譲歩するつもりでいたのである。非常な平和愛好者である首相の近衛侯爵は、ルーズベルトとの会談を繰り返し要望していた。在日米国大使であったジョセフ・グルーは、日本がどれだけ米国と平和的関係を保ちたいと望んでいたかを承知しており、首脳会談を強く要請した。日本は米国との開戦を避ける為なら何でもする用意があったであろう。併し、ルーズベルトは既に対日戦、対独戦を行なう事を決意していたというだけの理由で日本との話し合いを拒否した。日本との間の悲惨な戦争は不必要であった。これは共産主義の脅威をより恐れていた日米両国にとって、悲劇的であった。我々は、戦争から得るところが無かったばかりか、友好的だった支那を共産主義者の手に奪われる事となった。イギリスは、それ以上に多くのものを失なった。支那に対して特別の利権と特権を失ない、マレーシア、シンガポール、ビルマ、インドおよびセイロンをも失なった。日本人は、高度の忠誠心、愛国心に満ちた、非常に感受性の強い、誇り高き、且つ、勇敢な民族である。このような民族に「恥ずべき最後通牒ハルノート」を突き付ければ、必ず戦争になるとルーズベルトは確信していた。私はルーズベルトを許す事ができない。この大戦は米国に30万人の死亡者と70万人の負傷者、そして5,000億ドルの出費を米国に齎らした。日本には軍人、民間人合わせて300万人以上の死亡者を齎らした。日本の物的、人的、精神的被害は計り知れない。その責任はルーズベルトが負っているのだ』

そもそも、白人が非白人を差別する事が当然だった時代に、世界で初めて白人列強諸国に対して国際会議という公式の場で、明確に「人種差別撤廃」を提案したのは、他ならぬ日本人であった。これが、大英帝国から世界覇権を奪った白人国家米国が当時の大日本帝国を憎んだ最大の理由である。歴史は国家や民族によって様々に都合よく解釈されるものだが、国家や民族の枠を超えて人それぞれの個人単位でも、また様々に解釈されるものである。だから、当然の事ながら「戦後教育」に於いては、日本人による「人種差別撤廃提案」が「大東亜戦争」の遠因だなどとは教えてはいないし、この考え方は日本の近現代史の主流とも言えない。現段階では、私個人の見解に過ぎない。GHQ/SCAPが定めた「戦後教育」では、勿論、この事実は絶対に教育される事はない。この「人種差別撤廃提案」とは、第一次世界大戦後の1919年2月13日、「パリ講和会議の国際連盟委員会」に於いて、大日本帝国が主張した、「人種差別の撤廃を明記するべきという提案」を指す。併し、大英帝国の自治領であった豪州や米国上院が強硬に反対し、ウッドロウ・ウィルソン米大統領の議長裁定で否決されてしまった。国際連盟委員会に於いて、日本の牧野伸顕 全権大使は連盟規約第21条の「宗教に関する規定」に次の条項を加える事を提案した。「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速(すみやか)に連盟員たる国家に於ける一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざる事を約す」という、所謂「人種的差別撤廃提案」を行なった。事前の根回しはあったものの当時の常識を覆す提案に会議は紛糾し、結局連盟規約第21条自体が削除され、牧野伸顕 全権は、「人種差別撤廃提案自体は後日の会議で再提案する」と述べて次の機会を待つ事となった。我が国のこの提案は、当時の常識を覆すもので、報道により海外でも様々な反響を呼んだ。

同年4月11日に国際連盟委員会の最終会議の場で、牧野伸顕 全権は連盟規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との文言を盛り込むという修正案を提案した。議長であったウィルソン米大統領は、提案そのものを取り下げるよう我が国に勧告したが、牧野は受け容れず採決を要求した。議長を除く16名が投票を行ない、仏、伊、支那など計11箇国が賛成し、英、米、ポーランド、ブラジル、ルーマニアの計5箇国の委員が反対した。過半数の賛同を得たものの、議長であった米大統領ウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言し、これに対し牧野は「多数決で決すべきではないか」と詰め寄ったが、ウィルソンは「このような重大な議題については、全会一致で決すべきである」として譲らなかった。 牧野は最後に「今般の自分の陳述および賛否の数は議事録に記載してもらいたい」と述べて、ウィルソンもそれを了解した。英国は修正案には渋々賛成の意向を示したが、移民政策上不利になってしまうと猛反発する豪州と南アフリカ連邦の意向を無視できず、結局は反対に回った。特に白豪主義を採る豪州は内政干渉であるとして強く反対し、続いて米国も自国の亜細亜系移民排斥運動と黒人問題を抱えていたため反対した。実際、ブラジルを除き、賛成国は当時は移民を送り出す国であった。奇しくも日本が「人種差別撤廃提案」をした1919年に、米国陸軍は「オレンジ計画」という対日戦争計画を非公式に策定し始め、1924年には対日戦争策定案は公式なものとされた。1919年以降、米国は本気で対日戦争を想定し始めたのである。(カラーで区別された戦争計画は約17種類に及ぶが、明確に対日戦争を策定したものが「オレンジ・プラン」と呼ばれた)

歴史的には「奴隷解放」を成し遂げた筈の米国では、未だに黒人差別が公然と行なわれているが、アフリカ系米国人が大きく期待していた「パリ講和会議」に於ける日本の「人種差別撤廃提案」が、賛成多数であったにも関わらず、議長裁定により法案が成立しなかった事に失望して、全米各地で紛争が起こったと、ポール・ゴードン・ローレンの『国家と人種偏見』という書籍に書かれている。「米国でも暴力的な反応があった。人種平等や民族自決の原則を講和会議が支持しなかった事に苛立ち、あからさまに不法で差別的な政策を前にして自国の政府が意図的に無作為であった事に怒って、米国の多数の黒人が完全な市民権を要求する事を決意した。この決意は特に黒人帰還兵の間で強かった。彼等の民主主義十字軍としての戦争参加は、祖国でもう少し民主主義を、という当然の夢を膨らませた。その一方で、復活したクー・クラックス・クランの会員のような反対派の連中は、平等の要求などは絶対に許さないと決意しており、『生まれながらの白人キリスト教徒は米国と白人の優位を維持する為に団結して統一行動をとる』という計画を公然と発表した。この相容れない態度が1919年の暑い長い夏に、剝きだしの暴動となって爆発した。当局は秩序回復の為に、警察、陸軍部隊、州兵を動員した。暴動が終わってみると、100人以上が死亡、数万人が負傷、数千ドルに及ぶ被害があった。ジョン・ホープ・フランクリンは次のように書き残した。「パリ講和会議」の差別の政治と外交に続いたこの『赤い夏』は『全米を嘗てない人種闘争という大変な時代に追い込んだ。』彼が目撃した暴力は国内の一部の地区にとどまらず、北部・南部・東部・西部…『白人と黒人が一緒に生活を営んでいる所ならばどこでも発生した』。」(『国家と人種偏見』)

3月にエジプトで暴動が起こり、4月に起こったインドのパンジャブ地方での反乱では、大英帝国の将軍が非武装のインド人群衆に発砲して死者400人、負傷者1,000人が出たという。同じ月にパレスティナでも流血の惨事があり、5月には大英帝国はアフガニスタンで戦争に突入し、トルコとは一触即発の状態となったという。

全米黒人新聞協会が発表したコメント
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第一次世界大戦が終結した1919年、 大戦の惨禍を再び繰り返す事がないように「国際連盟」を創設しようという「パリ講和会議」が行なわれました。この時、米国の黒人達が最も注目したのが日本です。 日本は、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという、その時点では正に画期的な提案を掲げて、 戦勝国の一員措定(そてい)講和会議に出席しています。この講和会議に出席する日本の全権使節団は、パリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄りました。 本来ならば、パリに向かうなら、インド洋を回るルートが早道です。けれど、日本の使節団は、敢えて別ルートで米国を回ったのです。これには理由があって、 「人種差別撤廃」を図りたい日本の使節団は、 講和会議の議長役となる米国のウィルソン大統領に、予め根回しをして「人種差別撤廃」への協力を求めようとしたからです。ですから、この日本の訪米は、 長年人種差別と戦ってきた米国の黒人社会が大絶賛していますボストン・ガーディアン紙の編集長モンロー・トロッターなど、 黒人社会の指導者4人は、日本の使節団に「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」事に尽力してほしい、という嘆願書まで渡しているのです。「我々(米国の)黒人は講和会議の席上で「人種問題」について激しい議論を戦わせている日本に、 最大の敬意を払うものである。」これは、全米黒人新聞協会が発表したコメントです。 

人種差別に苦しむ米国の黒人社会は、 有色人種でありながら世界の大国の仲間入りをした日本を、 人種平等への旗手と見做していたのです。当時、ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、 二人が黒人だった事について、黒人紙のカリフォルニア・イーグルス紙は次のように述べています。「殆んどの病院が黒人に固く門戸を閉ざしている昨今、 日系人の病院がどの人種にも、 門戸を開放している事は本当に喜ばしい限りである。 同じ人種の医者に診てもらう事ができる安心を患者は得る事ができるのだから。」そもそも日本人というのは、 人種差別という概念を持ち合わせていません。 誰であれ、親しく真面目に接してくれるなら、 胸襟を開いて友となる。それが日本人です。1923年の関東大震災では、ある黒人が、シカゴ・ディフェンダー紙に「米国の有色人種、つまり我々黒人こそが、 同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書しました。それを受けて同紙は直ぐに日本人救済キャンペーンを始めた。 「確かに我々は貧しい。併し、 今、お金を出さなくていつ出すというのか。」同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透していきました。万国黒人地位改善協会は、 「同じ有色人種の友人」である天皇に深い共感を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行なった。シカゴ・ディフェンダー紙のコラムニスト、 A・L・ジャクソンは、長い間白人達の専売特許だった科学や商業、工業、軍事に於いて、 飛躍的な発展を遂げようとしていた日本が、 震災で大きな打撃を受けた事により、黒人もまた精神的な打撃を受けた、と分析しました。何故なら「日本人は、それまでの白人優位の神話を崩した生き証人」だったからだといいます
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1919年7月27日シカゴでの人種間暴動が勃発した。ボート遊びをしていた黒人少年が誤って白人専用ビーチに入ってしまい、白人から石を投げつけられて死亡した事が暴動の発端であった。米国では、1857年に最高裁判決で、「差別をしても憲法違反にならない」「黒人は市民ではなく、奴隷であり、憲法は白人の為のみにあるものであり、黒人は、白人より劣等な人種である」とはっきりと宣言している。その後の歴史は正に、リンチと暴動と、暗殺の歴史であった。特に、武器が民間人にも容易に手に入る米国に於いては、白人が集団で黒人をリンチし、鞭で叩くとか、家を壊す、火をつける、酷い場合には、電柱に吊して銃で蜂の巣にするような事が公然と行なわれた。1908年のスプリングフィールドの暴動では、黒人、白人あわせて200人が拘留されたが、「白人で処罰された者は、ひとりもいなかった」。やや遡るが、1905年にはカリフォルニアで「日本人排斥運動」が起きている。これが、日本が1919年の「パリ講和会議・国際連盟委員会」に於いて「人種差別撤廃提案」を打ち出した当時、これを否定した米国国内の偽らざる状況である。あれから約100年が経過した今年(2020年)、米国では、白人警察官に黒人が窒息死させられるという悲惨な事件が繰り返されてきた事を契機に、黒人と黒人に共感する一部の白人が加わって、全米で抗議デモが起きている。


100年前には「スペイン風邪」の世界的パンデミックが起き、米大統領ルーズベルトと全体主義国家ドイツのヒトラーとの確執に日本は巻き込まれた結果、国を失なった。2020年、世界は新型コロナウイルス(COVID-19)のパンデミックに襲われ、米大統領トランプと全体主義国家中共の習近平との確執に、日本はまたも巻き込まれようとしている。ドイツ帝国の宰相ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史み学ぶ」という名言を遺している。日本は今こそ歴史に学ぶ大切さに思いを致して、今度こそは負け組に追いやられて、国を失なわないうに、賢明な道を選ばなければならない。