《日本が歩んできた道、日本が成してきた事を正確に識って、日本人である事に誇りと自信を持って欲しい 》
奴隷はあらゆる地域、時代の文献からも広範にその存在が確認され、その様態も様々である。歴史を遠く遡れば、日本も決して例外ではない。福本勝清氏によれば、多くの奴隷制は生産と必ずしも結びついていないか、生産様式や生産関係を規定づけるほど主要なものではなく、本質的には「自己の勢力を増やす手段であった」。
人種差別、性差別、幼児売買、部落(部族)差別などは奴隷制に固有のものではないが、多くの場合密接に関係していた。暴力と恐怖による支配が社会階層におよぶ場合、必然的に農奴制や奴隷労働者の階級が形成された。
有史以来、人が人を所有する奴隷制度は世界中で普遍的に見られたが、風土・慣習・伝統の違いによる地域差が大きい。戦争の勝者が捕虜や被征服民族を奴隷とする事は、古代には世界中で程度の差こそあれ普遍的に見られた。
古代支那の殷では神への生贄に供する為に奴隷が用いられた。人が人に所有され、人権を与えられない者が奴隷であるなら、日本でも弥生時代に生口(せいこう)と呼ばれる奴隷的身分が既に存在したとされる。勿論、古代ローマ時代に被征服民族が奴隷とされたり、大航海時代以降、白人たちが有色人種を奴隷売買して苦役させたりした奴隷制度と日本の生口は全く性質が異なる。また、中華王朝の周辺部族が皇帝に朝貢する時には、生口を貢物として差し出す事も珍しくはなかった。
農業革命が達成された支那に於いては北宋以降、日本に於いては江戸時代初期以降、土地の囲い込みによる農奴の小作農化(賃労働化)が進んだ。日本では、この農奴の小作農化により、奴隷階級は完全に消滅したと言っていい。白人文化のような家畜的扱いで苦役を強いる奴隷制度が日本に無かったのは幸いである。
西欧諸国では17世紀のペスト禍によって奴隷の価格や農奴の価値が上昇するにつれ、国民については厳格な階級制度が緩和され、農奴から小作人への身分転換が進んだ。併し、国外については、商品購買層ではない人々(他人種)に対して依然として奴隷売買が続けられた。
新大陸(アメリカ)に於いては、リンカーンの奴隷解放宣言後も、事実上の奴隷制度は、人種差別の名の下に近代まで続いた。そもそもリンカーンが奴隷解放宣言を行なっている瞬間にも、北部諸州(南部ではない)では、実際には奴隷使役・売買が続けられており、奴隷解放と奴隷解放宣言の期日は全くイコールではない事は殆んど知られていない。そしてリンカーン自身も奴隷解放宣言の後もしばらく奴隷を使役していた事は恣意的に語られていない。大半のアフリカ系アメリカ人は1971年まで、「選挙権はあるが投票権がない」状態だったなど、政治的な権利の制限は長く続いた。
2014年IS(所謂イスラム国)はコーランの解釈に基づき奴隷制度の復活、運用を国際社会に公表したが、ここでは取り上げる価値もない。ただの犯罪である。
話は大東亜戦争の遠因に及ぶ。戦争要因の裏に人種差別的偏見が存在した事は疑いようがない。第一次大戦後の世界は欧米列強(白人諸国)による有色人種世界の植民地化、奴隷化に終始しており、南米・中東・アフリカを始め、アジア諸国も例外ではなかった。
こうした中、有色人種国家で唯一、欧米列強に伍していた日本は、国際会議に於いて、世界で初めて人種差別撤廃を明確に主張した。
人種的差別撤廃提案(Racial Equality Proposal)とは、1919年のパリ講和会議の国際連盟委員会に於いて大日本帝国が主張した、「人種差別の撤廃を明記するべき」という提案を指す。これには、大英帝国の自治領であったオーストラリアやアメリカ合衆国上院が強硬に反対し、議長のウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の裁定により一蹴された。これが後に日本が大東亜戦争に追い込まれた遠因のひとつである事は間違いない。
世界中を植民地化して、原住民を人間扱いせず、奴隷化して数百年に亘って繁栄を謳歌してきた白人諸国にしてみれば、有色人種である日本人から人種的差別撤廃提案を受けるなどとは思いもよらず、また忌々しい出来事であったろう。日本は「欧米列強=白人宗主国」で占められる、世界の勝ち組の中にあって取り除くべき異物同然と判断された事だろう。
米国から捕鯨船の中継基地とするべく、半ば力尽くで開国を迫られ、1854年(嘉永7年または安政元年)日米和親条約締結により開国された日本は、巡り巡って87年後の1941年(昭和16年)、また米国から江戸時代に戻れとの理不尽な要求を突きつけられた。「江戸時代に戻れ」とはハルノートの事である。
当時の『機密戦争日誌』には野村大使の報告と前後して打電された在米武官からの要旨報告電報が次のように記されている。
「果然、米武官より来電、米文書を以て回答す、全く絶望なりと。曰く 1、四原則の無条件承認 2、支那及仏印よりの全面撤兵 3、国民政府(汪兆銘政権)の否認 4、三国同盟の空文化」。「米の回答全く高圧的なり。而も意図極めて明確、九箇国条約の再確認是なり。対極東政策に何等変更を加ふるの誠意全くなし。交渉は勿論決裂なり。之にて帝国の開戦決意は踏み切り容易となれり」。
要するに、日本が鎖国を解いて以来、「開国進取」を国是として、血の滲むような努力し、日露戦争では多大な犠牲を払って手に入れた権益を、全て手放して、また「江戸時代に戻れ」と言うに等しい要求をしてきたのである。これに先駆けて、所謂ABCD包囲網により、石油や屑鉄の禁輸も強いられていた。
日本が事実上、独力では唯一国、アジアで独立を保っていられたのは、軍艦と戦闘機の保持という、強力な軍事力と外交力を持っていたからである。当時の石油備蓄は僅か7箇月分であった。7箇月後には日本は連合国、主に米国の植民地になる事は避けようがない。
開戦の決断は止むを得なかった。これを今の日本人は日本の文科省により「日本による侵略戦争」と教えられている。日本が米国を追い詰めたのではない。米国が日本を追い詰めたのである。日本が米国の無辜の民を攻撃したのではない。米国が日本の罪なき民間人を大虐殺したのである。(日本の民間人犠牲者数約90万人)
敗戦後の日本に降り立った占領軍総司令官ダグラス・マッカーサーは、「日本人による朝鮮人奴隷支配からの解放」を宣言した。日韓併合は大韓帝国からの度重なる懇願により、国際法に則って為され、米国も国際社会も賛成し承認していた。そもそも植民地ではなかったし奴隷的支配もしていないのは、国際社会でも周知の事実であった。
では何故、マッカーサーは突然そのような虚言を吐いたのか? それは現在の真面な日本人なら手に取るように判る。
後に行なわれた「裁判を模した私刑」所謂 東京裁判に於いて、唐突に問われた「南京大虐殺」の罪は「原子爆弾実験投下」の被害者数と絶妙に相殺される数合わせであり、道徳的に日本の上に立つ為には、奴隷制度で発展してきた米国は「奴隷制度のない日本」に「朝鮮からの奴隷的搾取」の罪を負わせる必要があったのである。
更に、マッカーサーは日本にいる朝鮮人の帰国を承認しなかったばかりか、戦勝国民として扱うよう日本に命じた。ここから在日朝鮮人の想像を絶する悪行が始まり、我が祖父母は塗炭の苦しみを味合わされる事になる。併し、この史実は在日韓国朝鮮人たちにより歴史の闇に葬られつつある。
日本人は朝鮮人を同じ国民として扱っていた為、朝鮮人は日本にも数多く居たが、日本に行けばやりたい放題の事ができると、多くの朝鮮人が密航してきた。日本に来れば朝鮮人居るより楽に生活できた事は事実であったし、密航者の殆んどは、朝鮮では最下層の奴隷である〈白丁〉であった。差別の無い日本に来たがる訳である。彼等はマッカーサーの言葉通り〈被害者〉を演じつつ、戦勝国民と偽って徒党を組んでは目に余る悪行・乱暴狼藉を重ねた。
国民総力戦に敗れた直後の日本には、食べるものとてなく、進駐軍の食糧配給に救われた命も多かった。食糧配給は第31代米大統領ハーバート・C・フーヴァーの「食糧の輸入がなければ、日本国民に必要な食糧の数量は、ドイツの強制収容所並みか、それ以下になるだろう」と、食糧援助をマッカーサーに進言してくれた為に実現したものだ。
所謂 東京裁判で問われた主な罪は全て冤罪である。日本人は大東亜戦争に於いても、朝鮮半島に於いても、天に恥じるような事はしていない。南京大虐殺・朝鮮人慰安婦強制連行などは、戦後になって捏造されたものである。
最後に、各国軍隊の行くところ、必ず現地の女性が陵辱され、多くのハーフ(昔はアイノコと言った)が産まれて、父親たる兵士に放置され、兵士は帰国した。米軍・韓国軍など酷いものである。対して我が日本軍が去った後に日系ハーフが放置されて問題化したという話は絶えて聞かない。200万人以上の日本軍が海外に駐留し、戦った現実があるのに、である。
戦後の日本人に説いて聞かせたい。日本軍ほど信義を重んじ規律正しい軍隊は世界にも稀であった。もともと日本とはそういう国であった事を忘れないで欲しい。戦後の間違った教育に価値観を歪められ、韓国などが言い募る〈性奴隷強制連行の嘘〉に惑わされてはいけない。自信と誇りを持って我が国を「再建」しようではないか。いい加減、『マッカーサー史観、東京裁判史観、自虐史観、偽りの贖罪意識』から抜け出さなければ、日本は本当に情けない国になってしまう。